2022年9月25日

(説教要旨)
                   
           「福音を恥とせず」    山本光一牧師
                       
〈ローマ信徒への手紙 11617節 〉
 「牧会職はまず、イエスキリストの福音の宣言、隣人への奉仕、神礼拝の3つである」(牧会職<キリスト教神学事典)の話の続きです。
 今から13年前の2009年の11月、わたしは北海教区幹事を辞任する願いを出し、春からの赴任地の紹介を同信会にお願いしていました。ある日の夜中、全国同信会のN牧師から「山本さんにぴったりの教会がある!」と電話がありました。それが京葉中部教会でした。
N
さんは、わたしは紹介を断らない、一番最初に紹介した教会を引き受けることを良く知っていました。Nさんは「では」と言ってすぐに電話を切ったので
何がぴったりなのか?良く分かりませんでしたが。
実は、わたしは市原と市川の区別が、ここに赴任する1か月前までわからなかった。それまで市川というところに行くと思っていた。
東京から電車に乗って千葉駅で乗り換える時、内房線に乗れば良いのか、外房線に乗れば良いのか、しばらく考えた。

 

それくらい分からないままこの街に来たのです。
N
さんが言った、何がぴったりなのか?良く分かりませんでしたが、この教会で過ごすうちにN牧師が「ぴったりだ」と言った言葉の意味が分かりました。
1961
年の宣教基本方策と1963年の宣教基礎理論を半世紀の間忠実に実行している教会だということが分かったからです。
つまり、この世の問題を教会に積極的に取り込み、人々に仕える姿勢(体質改善)、地域の問題を諸教会と共同で取り組む姿勢(伝道圏伝道)の姿勢がしっかりとしていたからです。
 2011年にした「教会創立50周年記念誌」作成の為に50年間の教会の歴史を調べることが出来たのは、この世に仕える教会の姿勢を確認することが出来て、幸いでした。
 「この教会は伝道圏伝道の面はちょっと弱いか」と思っていましたが、2011年の3月に起きた東日本大震災の救援活動の為にクリスマスより大切なイースター礼拝の日さえ快く釜石に行かせてくれる教会の態度に「伝道圏伝道に弱くはなかった」と思いました。
体質改善(この世の問題が持ち込まれること)と伝道圏伝道(この世の問題を諸教会と共同して取り組むこと)とは、困ったことが持ち込まれ、困ったときに発揮されるものなのだと思いました。
 牧会職の、毎週の主日礼拝では、密かに、皆さんそれぞれの「困ったこと」が持ち込まれたのだと思っています。礼拝の時は、困った時に困ったことが神様に持ち込まれる時でありました。説教では励ましと希望とが語られたでしょうか?
 牧会職の、イエスキリストの福音の宣教は、今朝のテキストに明確です。何度も繰り返しお話したことですが、福音(イエスの言葉、行動、出来事)には、神の義(デカイオー)が啓示されている。「義」とは裁判長が「無罪である」と宣言する時に使われた用語です。裁判長がする無罪の宣言とは、「罪はあるが、特別に赦してやる」という意味ではありません。「あなたには罪はない」という宣言です。
「神様によればあなたはそのままでその存在を善しとされている」という宣言です。自分は罪人だとだと思いこんでいたのが、イエスの福音によって、それがひっくり返されるのが神の義である、福音にはそのことがはっきりと示されている(啓示されている)とパウロは書いているのです。
みなさん、これをこの世に伝え、実践するのに何の躊躇も必要ありません。
 9月第1週の「宣教論~教会はいったい何をするところなのか」の説教で言い忘れましたが、光の子幼稚園、京葉教育文化センターは、一生懸命、教会と共に宣教活動を担っています。
宣教活動とは、わたしたちに先立って神がされる宣教に参加して、神様に仕えるということです。
あの日に読んだ〈マタイ25章〉には、「この世のもっとも小さいものの一人にしたことは神様にしたことである」と書いてあります。ですから、幼稚園も京葉教育文化センターも教会と共に一生懸命宣教活動をしているのです。
わたしは今月でこの街を去りますが、新任の牧師と共に福音宣教の業をますます続けて頂きたいと願っています。みなさん、どうぞお元気で。

2022年9月18日

申し訳ありませんが、今回はCD録音が出来ず音量が小さいです。ヘッドホンの使用で少し改良されます。また、スマホでお聞き頂くと、より聞こえますので、お試し下さい。

説教要旨)

                   「キリストの体」         山本光一牧師
 
              〈1コリント122332節 〉
 わたしは1979年に神学部を卒業し滋賀県にある近江八幡教会で4年間を過ごしました。教会員は300人程で青年たちを育てるよう求められました。琵琶湖畔に青年たちとひと夏かけてキャビンを建てるなどして楽しく過ごしました。
1983
年に岡山県の琴浦教会に主任担任教師として赴任しました。瀬戸内の海岸にある小さな街でのんびりとした毎日を過ごしました。学校を卒業して以来10年間は教会のことだけで過ごしました。
 1989年に札幌元町教会に異動することになりました。舞鶴から小樽までのフェリーの中で、それまでの10年間を振り返りました。そして「自分自身で違和感を感じないような牧師になろう」と決心しました。確かに教会員の期待には良く応えていたと思います。優等生的な青年牧師というような評価であったように思います。
しかし、わたしには違和感があったのです。「これで良いのか?」と思いました。教会員ではなく、神様の期待に応えるのが牧師なのではないか?と思ったのです。これは即ち「教会員に気を遣って神経をすり減らすのは辞めよう」という決意でもありました。
札幌元町教会では、根にもたないさっぱりとしたものでしたがよく喧嘩をしました。1991年の湾岸戦争から始まるPKO法案などの「戦争をできる国」にするためのさまざまな法案に反対する取り組み、岡山の教会時代から始まっていた統一協会員を救出する取り組みなどをして教会に居なかったからです。自分の職務についての認識と教会員の認識が違っていたのです。(「君は君の教会のことだけを心配したまえ」Aヒトラー)
 『キリスト教神学事典』の「牧会職」という項にはこう書かれています。「牧会職はまずイエスキリストの福音の宣言、隣人への奉仕、神礼拝の3つである」と書かれた後「牧会職はキリスト者共同体だけに対するものではない。キリスト者は他者に奉仕することによって信仰生活上の成長をとげる」。

わたしは伝統的な牧会職理解から逸脱している気は毛頭なかったのです。
札幌元町教会で13年間を過ごし、北海教区幹事として8年間働いて2010年に京葉中部教会に赴任しました。
 日本基督教団は会衆派の伝統である招聘制度を採用しています。
みなさんは牧師という職に何を期待されますか?気になるのは牧師の人格でしょうか?能力でしょうか?
 わたしは残念ながら、そのような期待に応えることができる者ではありませんでした。 しかし、それで良かったと思っています。パウロは〈1224〉で「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組立てられました」と書いています。
わたしたちを造られたのは神です。神がわたしたちを造られたのですから、神はひとり一人の、それぞれどこら辺が見劣りがするのかを良くご存じです。神は、敢えてわたしたちに見劣りをする部分を造られたのです。見劣りをする部分を造れば、わたしたちは神に助けを求めます。わたしたちは助け合わなければなりません。わたしの見劣りがする部分にこそ神様が働かれていたのですから、それをみなさんに伝えればよかっただけなのです。
 キリストの体(教会)で働かせていただいたので、このようなことは通用したのだと思います。
破れの多い、能力の無さに寝れない時もありました。このような時に、時々「おまえは、それで良いよ」と言う声が聞こえてきました。その声は神様の声であったのでしょう。


2022年9月11日

(説教要旨)

                 「教会の役割」  山本光一牧師

                 〈ルカ福音書15章11~32節 〉

 イエスは、教会を創りませんでした。教会(エクレシア)を創ったのはイエスの弟子たちです。しかし、イエスは、わたしたちの教会はどんなところであるかを教えておられると思います。今朝は、わたしたちが良く知っている放蕩息子の話から「教会はどんなところであるのか」をお話したいと思います。

 わたしが喜んで教会に通った理由は、二つありました。ひとつは、イエスの福音の言葉にパラダイム(これがあたりまえだと思っていること)をひっくり返す力を見たからです。自己変革が迫られて胃が痛くなるような時もありましたが、「真理とは何か」と探る態度を与えられました。

 もうひとつは、教会が安心していられる居場所であったことです。つまり、何か教会の役に立つわけでもなくそこに居ることができた。用事があるわけでもなく教会に居たわけです。

 〈ルカ15章〉は、有名な例え話が3つ続いています。良き羊飼いの話〈ルカ1547〉、失われた銀貨を探す話〈ルカ15810〉、この二つは「探す神様」が譬えられています。3つ目の放蕩息子の話に登場するお父さんは「待っている神様」「受け入れる神様」です。

なぜお父さんは家に向かって歩いて来る息子を遠くに認めることができたのか。ずっと待っていたからです。

放蕩息子が反省したからお父さんは家に迎え入れたのか。放蕩息子の反省の言葉はお父さんが息子を抱きかかえた後に起こっています。3つの例え話は「失われた者が安心できる、居るべき場所に戻ってきたら、神はどれほど嬉しく思うか」という話です。

 D.ボンヘッファーは、『共に生きる生活』(1938)の中で、「奉仕(仕えること)」と「一人でいること」の項を立て、「キリスト者の交わりは決して何か精神的療養所のようなものではない。自分自身から逃避して交わりに入って来る者は、そこをおしゃべりと気晴らしの場所として誤って用いているのであり、しかもこのおしゃべりや気晴らしはなお精神的なことであるように見えるかもしれないのである。」「ひとりでいることのできない者は、交わりを用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」(上記の言葉は神の存在を無視すると分からなくなります。Dボンヘッファーは、一人でいることを恐れるな。教会の交わりの中に居ろと言っているのです)と書いています。そして、わたしたちは彼の「教会は他者の為に存在して始めて教会である」という言葉、何の為にここに集まっているのかとの言葉を忘れてはなりません。

 

 教会は神の家です。この言葉は神殿を意味していました〈詩編844〉。教会は神と出会う場所であります。パウロは、教会はイエス・キリストの体である〈1コリント1227〉と言いました。教会は、イエスが罪びとを招いた食事会〈ルカ1513〉でありたいものです。

2022年9月4日

(説教要旨)
                「神の宣教への参与」 山本光一牧師
 
             〈マタイ福音書253146節 〉
わたしが主日礼拝の説教をすることができるのは、あと4回となりました。
最後の4回の説教の構成は、ずいぶん前から決まっていました。
(1)  
宣教論 (2)  教会論 (3)  牧師の働きとは何か。(神学部卒業から京葉中部教会に着任するまでの31年間)
(4)  
牧師の働きとは何か (2010年から12年と半年の京葉中部教会でのこと)
説教は、聖書の内容を解説する「講解説教」とテーマを決めて話す「主題説教」とに分けられますが、最後の4回の説教は、主題説教だと言うことになります。 
今日の礼拝説教の中身は、ミッシオ・デイという言葉の中身についての話です。
ミッシオ・デイ(Missio Dei)という言葉は、「神の宣教」と訳されます。この言葉は、日本では1960年代に一般的に知られるようになりました。(わたしがこの言葉を知ったのはずっと後、1980年代ですが)
 教会は、それまで「神」と「教会」と「この世」との関係を次のように理解していました。
(1)  
神がまず教会を救い、教会がこの世、この世の人々を救う。
この世に在る人々、まだキリスト教の信者になっていない人々は、教会によって救われなければならない人々でした。教会は熱心に伝道に励みました。(教会の伝道の業は、教会の宣教の業のひとつです)
(2)  
しかし、「神の宣教」の理解は、「神」と「教会」と「この世」との関係を転換させました。
神はすでにこの世を救われている(神の宣教)。 教会は神の宣教の業に参与するのだ、と。
 驚くべきことに、K. バルトは、1922年には次のように書いています。
「彼ら(異邦人、まだ福音を聞かずに、わたしたちが「救われていない」と言っている者たち、ノンクリスチャンたち)が、われわれの神の言葉にかくも無頓着なのは、彼らが早くから、われわれなしにそれを聞いているからであり、早くから自分自身でそれを知っているからである。
 世俗の人や、聖人で無い人や、信仰の無い人が、あきらかな惨状の中に居ながら、われわれの説教や、牧会の対象にならず、われわれの福音化運動や宣教や救済活動の対象とならず、またわれわれの愛の対象にならないのは、われわれが立ち上がって彼らを憐れむよりずっと先に彼らが神の憐れみによって探し出され、すでに神の義の光の中に立ち、すでに罪の赦しにあずかり、すでに復活の力にあずかり、すでに永遠を恐れて、そこにこそ望みをかけ、すでに神に身を投じているからである!」(Karl Barthローマの信徒への手紙 930節から10章3節までの講解 1922年〉
 まだクリスチャンではない人々は、まだ神に救われていない人々ではないのです。神はわたしたち教会が働くずっと以前に神の救いの中に在るのです。
 神の宣教に参与する教会は、その人に宗教的次元を付与することを目的としません。
神の宣教に参与する教会は、まだクリスチャンではない人々を憐れむ必要はなく、救う必要もないのです。
神の宣教に参与する教会は、神がわたしたちを憐み、神がわたしたちを救いの中に在ることを共に喜ぶことを求めているのです。
 Kバルトの同労者であった、D.ボンヘッファーは、「教会は他者の為に存在して始めて教会である」と言いました。
この言葉は、「キリストのように、人間は他者のために存在している」と書いた後に付け加えられた言葉でした。
1944
年に至って、ボンヘッファーは、この観点から、自分が籍を置いていた教会に「自己保存の為だけに活動しているのか」と痛烈に批判をしています。
「他者の為に存在する」とは他者の為に損をするということです。
今朝の箇所は、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と、教会は他者の為に存在せよと求めています。それは教会の優れた宣教の業であり、優れて神に仕える業なのです。

 

 

2022年8月28日

(説教要旨)

                 「それでも」  村上治衣夏期伝道師

                 〈詩編 329節 〉 

  詩篇3編は詩篇における代表的な祈りの言葉です。詩篇は古代教会において、使用されていたと言われています。同じようにこの祈りは私たちの祈りに非常に近い性質を有しています。端的に述べるなら「神により頼む」祈りです。この祈りはより頼むと同時に「神への信頼」を表すものでもあります。今朝私たちが与えられた箇所で詩人は、神への信頼が祈りとして強調されています。敵に囲まれるような状況であると言える詩人は、神の前において「身を横たえて眠る」ことができるのです。

  さてこの詩人は、何に苦しめられているのでしょうか。詩人の語る苦しみの正体は敵との関係においてまた、病気、貧困などのさまざまな苦しみなのでしょう。詩人はこれらの苦難について神に信頼を置いてより頼むと共に、悩みが解決されないことを嘆いています。ですから、詩人は神への信頼の前提に「それでも」という言葉を使うのです。自身の悩みが解決されないことは私たちの日常でもあります。主に対して望んだ願いと主の方法がすれ違うことは詩人同様、私たちに不安を与えます。この不安は、私たちには非常に困難な試練と言えます。「神などいない」と言い切ることは私たちの身近な誘惑を持ってすれば簡単なことです。しかしながら、私たちは自分自身の力では身近な苦しみや、不安に打ち勝つことができません。それゆえ、私たちの信仰のあり方は、詩人と同じように疑いながら信じる「それでも」という信仰なのです。

  詩人は「それでも」と祈っています。私たち同様、詩人の心は揺れ動いています。しかし、詩人は「それでも」と祈っています。詩人は信仰への不安を抱きながらも祈るのです。私たちは絶対的信仰を持ち合わせてはいないのです。けれども、だからこそ私たちは「それでも」必死になり神へ祈りを捧げるのです。なぜそのような私たちを主は受け入れてくださるのか。答えは聖書によって示されています。(マタイによる福音書14章31節)には「信仰の薄いものたちよ」とイエスご自身が手を貸してくださる場面があります。主は、私たちの信仰が薄く脆いことを知っていてくださるのです。それでもなお手を差し伸べてくださり、また(マタイによる福音書28章10節)にある「わたしはガリラヤで、あなたを待っている」と書かれている通り主を知らないと口にする人でさえ受け入れ待っていてくださるのです。何を持って信じるとするのかは人それぞれあることと思います、しかしどのような形でも受け入れられることをわたしたちは教えられています。ですから、今日も私たちはそのような主に不安と疑いを抱きながらも「それでも」という信仰を持ち、主に「信頼」を置く一人ひとりでありたいと思います。 

2022年8月21日

(説教要旨)

                「子どもを祝福する」 山本光一牧師

                〈マルコ福音書101316節 〉 

 今朝の箇所は、子どもが好きだったイエスのことが判る密かに人気がある箇所です。イエスと子どもの関係を示す場面は今朝の箇所以外にもあります。マルコ福音書では〈93337〉(並行記事;〈マタイ1815〉〈ルカ94648〉)です。その物語では、弟子たちが誰が一番偉いかと議論していたことが判ったイエスが、子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせます。ここではイエスは、「一人の子どもを受け入れるものはわたしを受け入れる」〈937〉と言われ、誰が一番偉いのかの回答とします。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」〈マタイ2540〉と同じく、この箇所では子どもを「この世の偉くない存在」の代表として登場させて「偉い存在」の評価の基準を転換させているのです。

 おそらく、今朝の箇所は、「子どもをどう評価し、どう接するか」という問題ではなく、「誰が最も神の国を受け入れる存在なのか」についてのアポフテグマであると思います。つまり、イエスの「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」〈1015〉という印象的な言葉が記憶されいて、マルコ福音書が書かれる時に、この言葉を説明するために状況が創作されたのです。

 マルコ福音書は、他の並行記事には無いのですが、イエスが弟子たちの子どもに対する態度を「叱り」「憤った」と書かれています。弟子たちの最初の教会において、これまでの教会の態度について反省と見直しが始まっていたことを窺わせる記述です。ここでは「子どもを排除する」とは、教会が「小さき者を排除する」ことを表現しているのでしょう。おそらく、この弟子たちの反省と見直しは、わたしたちにも迫られていることなのでしょう。

  「子どものように」という言葉は、わたしたちに様々なイメージを誘発させます。しかし、イエスが「子どものように」と言われる時には、聞く人たちとの共通な「子どものイメージ」があった筈です。どのようなイメージだったでしょうか。面白いのは5千人の給食の物語において、ヨハネ福音書だけが5つのパンと2匹の魚を持っていたのは子どもだったと書いていることです。そして、弟子たちが「こんなもの何の役にもたたない」と思っていたことが記されています。

 

 イエスは「子どものように」を否定的にではなく肯定的に、神の国を受け入れるという文脈において、採用しています。子どもは、ある場面では「役に立たぬ」と排除されるべき存在でした。 しかし、子どもを、排除された者を、中心に立たせた教会活動は、神の国を受け入れようとするわたしたちに、これまでの教会形成の発想の転換を迫り、神の国を受け入れる喜びを助けるものだとわたしは思うのです。

2022年8月14日

(説教要旨)
                「不戦の決意」 山本光一牧師
               〈マタイ福音書5章9節〉
わたしたちは毎年8月に、戦争と敗戦を思い起します。
2次世界大戦、日中・太平洋戦争はなぜ起こったのか。これは、わたしには未だに大きな課題です。
 昨年の秋になって、どうしても日本の高校で勉強したくなったフィリピンの中学生Yちゃんに、「日本史」を教えることになりました。
勉強を始めて3回目くらい、歴史の勉強は好きだったはずの彼女が、なにかすぐれない顔をしています。
「どうした?」と訊くと「これは支配者たちの歴史だ」と言いました。わたしは黒板に、聖徳太子、法隆寺 聖武天皇、桓武天皇、東大寺、正倉院などと書いていました。
わたしはショックでした。たしかに、わたしが勉強した日本史は、支配者たちが何をしたのかを記憶するものでした。
中学生が勉強する歴史の教科書を何冊か読み、何冊かのドリルに目を通しました。そこには、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、井伊直弼、伊藤博文という人たちの名前が記憶されればよく、応仁の乱、関ヶ原のたたかい、盧溝橋事件など断片的な事件が羅列されて、それを暗記すれば良いのだと思わせるものでした。
 歴史を創る原動力というのは何なのだろうか。戦争の悲惨を生み出した原動力というのは何だったのか。
 ふと思い出して、家永三郎の検定不合格「日本史」を本棚から探し出して読んでみました。その本はわたしが学校で習った教科書とは全く違った編集がされていました。例えば、わたしたちは、時代区分を、縄文、弥生、古墳、(ここまでは歴史史料を手掛かりとした時代区分)そして、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、これらは、どこに首都が置かれていたかで時代区分としているわけです。そして、江戸時代が終わると今度は明治・大正・昭和・平成・・・。天皇の在位によって時代区分がされているわけです。家永三郎の日本史には、この時代区分は全く登場しません。意味がないからです。 
 皆が習っている教科書には、例えば「安土桃山時代」のページの始めには、織田信長が建てた安土城か、豊臣秀吉が建てた京都伏見の桃山城の絵か写真があって「天下統一の時代」などと書かれてあるのですが、家永三郎の教科書には、この時代区分の最初には水田で働く農民たちの絵があって、明治維新の時代の最初には製鉄所で働く人の写真があるのです。
 つまり、家永三郎の教科書が教えたいことは、歴史の原動力とは、生産手段の変化、その変化による生産力の変化、その変化による生産関係の変化、その変化を条件とした政治体制の変化なのです。
 この教科書は、本当に歴史を創ってきた人々とは、聖徳太子や、聖武天皇や、源頼朝、織田信長ではなく、一日中田畑で働いていた無名の農民たち、工場の労働者たちであると教えたいのです。
 さて、1868年の明治維新から1945年の第二次世界大戦終戦までですが、家永三郎の教科書を基にしてお話すると、明治維新以降、おどろくべき、生産手段の変化がありました。たった数年で製鉄、紡績などの工場機械が輸入され、鉄道が敷かれ、郵便制度が整い、電話線が敷設されました。生産力は飛躍的に向上し、人々の生活には大きな変化が生じます。
 「富国強兵」という言葉を教えた時、Yちゃんが「それはとても良いことだ」と言いました。「強い軍隊は必要だ。フィリピンは強い軍隊がなかったからスペイン、アメリカ、日本に支配されたのだ」
 「そうかぁ?」と言いながら、勉強を進めていきます。
日本は、18945年の日清戦争によって台湾を植民地とします。
1904
5年の日露戦争によって遼東半島を手に入れ、満州と朝鮮半島に進出する足掛かりを得ます。
1914
8年の第一次世界大戦によって、日本は中国の山東省と太平洋の島々を手に入れ、中国と太平洋地域進出の足掛かりを得ます。そして、1941年の12月、フィリピン、ベトナム、インドネシア、マレーシアに軍隊が上陸します。日本国内の生産関係を維持する為の資源、、工場の製品を作るための資源を奪い取るためです。
 「どんな工場の製品?」とYちゃんが訊きます。
思い出したのは三大財閥のひとつ、三菱重工業の、海軍の戦闘機ゼロ戦でした。「これが結局どういう風に使われたと思う?」
そう訊きながらyoutubeで沖縄戦の時の航空特攻の場面を見せました。Yちゃんの顔が曇りました。
そのyoutubeの、航空機による特攻の映像のコメント欄には、「英霊たちに敬礼」とか「今の若者たちには、命をかけて国を守るという気持ちがない」などと書かれてありました。
1868
年の明治維新から1945年の敗戦までの勉強は、結局、1か月かかりました。授業の最後に「広島」の原爆投下の映像を見せました。
「これが明治維新の『富国強兵』の結果だったのだよ。第2次世界大戦とは、世界各国の植民地の奪い合いだったんだ。そのために、たくさんの若者たちが兵隊となって死に、たくさんの女の人が、子供たちが、死んだ。とても残念だ。」
最後の勉強の日、高校入学試験の3日前、日本の敗戦後のページを読みました。使っていたのは英語で書かれた日本史の本なのですが、

 

そのページには「新しい憲法では、もう戦争をしないと決めた」と書かれてありました。Yちゃんが小さな声で「よかったぁ」と言います。
「新しい憲法では、もう戦争をしないと決めた」
この言葉がどれほど大切なものであるかを、一か月間の明治維新以降の勉強で、わたしも痛感しました。
わたしは、Yちゃんには、時間切れで話ができなかったことがあります。
それは、戦後の77年間、特に、911月の湾岸戦争以降、自衛隊を海外に派遣するPKO法案など、「戦争ができる国」を画策する政府に抗って、市民たちが戦争をさせない努力をした歴史でした。
憲法第81条には「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と書かれていて、ちゃんと違憲立法審査権・違憲審査権というものが与えられているのだから、司法はこの権限を発揮してくれないと困ります。戦後、もっとも激しく憲法違反を繰り返しているのは、歴代の政府です。この政府の暴走を止めることができるのは司法権です。
憲法第9条に「陸海空軍、その他の戦力は、これを保持しない」とあるのに、軍事費で現在世界第8位、予算額で5.5兆円、これを10兆円にもする画策があり、今、防衛産業と呼ばれている日本の企業はその予算の必死の争奪戦をしているようですが、つまり、戦前のように戦争を起こしたほうが国内の大企業が潤い、生産関係が保たれるという状況に陥っているわけですが、
 しかし、これほどの大規模になった自衛隊の違憲性を問うた北海道の恵庭事件裁判・長沼ミサイル基地裁判のことなどを話して、市民たちが政府に戦争をさせず、軍事力によって外国の方を一人も殺さない77年間であったことを、わたしは、是非、これからの世代の人たちに伝えたいものだと思っています。
わたしたちの、平凡な、平和な毎日をすごそうとする努力。これが、77年間、政府に戦争をさせなかった努力であるとわたしは思います。
毎日を、平和のうちに過ごしたいと願う、無名の、無数の人々について、イエスは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と祝福されて、毎日を平和のうちに過ごしたいと願う人々を励ましました。この主イエスの祝福の言葉に確信をもって、平和のうちに毎日を過ごす努力を続け、戦争をしない国の歴史を歩み続けたいものです。

2022年8月7日

(説教要旨)
                     「それでもなお、黙すか」山本光一牧師
                   〈イザヤ書64111節 〉
 今朝の聖書の箇所は、バビロニア帝国によって、エルサレムが徹底的に破壊されたことが記憶されています。敗戦の記憶。希望がまったく失われた時の記憶。それはイスラエルにとって大切な、忘れてはならない記憶なのです。
 今から40数年も昔の1970年代、89日に長崎の原水爆禁止世界大会に出席していて、112分になると町中のサイレンと教会の鐘が鳴り、町中の人が立ち止まって帽子を脱ぎ黙とうをしていたことを思い出します。あの時は敗戦後30年しか経っていませんでした。被爆後77年を経た今年の長崎の町の様子はどうなのでしょうか。77年間という時間と千葉と広島・長崎という距離が、記憶を薄らいだものにし、わたしの中で「無かったこと」のようにさせてしまう恐れのようなものを感じます。
 イスラエルの民は70数年間のバビロニアでの捕囚を経て、解放されて故郷に戻り、今、ユダ王国回復の努力をしています。
 しかし、その回復は絶望的なのです。エルサレムが破壊されることを防がなかった神は、ユダの再構築にもまるで無関心であるかのようです。
 いや、預言者イザヤは、人々に今一度、ユダの町々の荒廃を、エルサレムの残骸を、神殿の廃墟に目を向けるよう促します。
 そして、「それでもなお、主よ、あなたはご自分を抑え、黙して、わたしたちを苦しめられるのか」と言います。〈6411
 つまり、イザヤは、神をも亡きものにするなと言いたいのです。もはや神とは無関係になってしまった民に、「神に嘆け」と促すのです。
 「ああ、これは絶望的な現実だ」と言うだけでは希望はありません。そうではなく、「ああ、神よ、それでもなおあなたは黙するか」と神に向かって嘆けとイザヤは言うのです。それが、唯一の希望の持ちようであるからです。
 昨日(86日)、朝815分にいつものように1分間の黙とうをしながら、「ああ神様、俺は生きている間に核兵器のない世界を観たいのですが」との思いが湧きあがりました。なぜ、未だに核兵器が存在するのか。核兵器のない世界は正しい世界ではなかったのか。核抑止力は必要なのか。そんな思いにもなります。しかし、たった77年間の核廃絶の努力で「これは正しくはなかった」などと言うな。神様はそう言われたいのだと思いました。
 もう10数年も前の話ですが、原爆症認定訴訟が争われていた時、弁護団の池田真規弁護士が公判報告会で「核兵器廃絶まであと50年かかるかもしれないが」と言われたことがありました。わたしはそれを聞きながら「おいおい、あと50年もかかるのか? その50年の根拠は何か?」などと思いながら聞いていたのです。ところが、集会が終わって皆が会場を出ていく時、わたしの前を歩いていた被爆者の二人の高齢の女性が「あと50年で核兵器がなくなるって」と嬉しそうに話しているのです。

 

 わたしと違って、被爆後毎日のように核兵器がなくなりますようにと願い、努力してもなお「もう核兵器は無くならないのではないか」とさえ思って来た人たちには、あの池田先生の「あと50年」の言葉はとてつもなく希望を与える言葉なのだなと思いました。
 今はそう思えなくても、神はたしかにわたしたちを放っては置かれないのです。平和のうちに安心して暮らすことができる日は必ず実現する。その希望を持って歩みを続けたいものです。

2022年7月31日

                       「神からの真理 」    1 テモテへの手紙 31416節 〉山本光一牧師

〈使徒言行録〉によれば、テモテの父はギリシア人で母はユダヤ人でした。パウロはテモテを気に入り、伝道旅行に連れて行きたかったので、ユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせました。これはA.D.50年前後のことであると推察されます。テモテはパウロの第二回宣教旅行、第三回宣教旅行に同行し、パウロのよき協力者でありつづけました。
 〈テモテの手紙〉は、〈テトスの手紙〉と共に牧会書簡と呼ばれています。パウロは今マケドニアに居て、テモテが居るエペソに宛てて、彼がエペソの教会をどのように牧会すべきかを書いているのです。
 パウロがエペソの教会についてとても気にしていたのは、イエスの福音と異なる教えを伝えるものとのたたかいでした。テモテはこれをやりとげるだろうか。
 しかし、今朝の箇所は、わたしたちに「教会とは何か」を教えます。パウロによれば教会は「神の家」であり、そこは真理の柱であり土台である生ける神の教会です〈315〉。
 エルサレムのソロモンの神殿も神の家でした。テモテが今居るエペソにはアルテミスの大神殿があり、そこも神の家でした。
 パウロは、神の家を言い換えて「真理の柱であり土台である」「生ける神の教会」と表現しています。
 この二つは大切な教会のイメージであると思います。教会に集うわたしたちは、真理を体現している無謬主義の集団ではなく、真理を追い求める集団です。
 そして、教会は、死んだ神ではなく、「生ける神」の教会です。有賀鉄太郎は、神を「あってあらしめるもの」と説明しました。神は常にわたしたちにとって動詞なのです。
 〈316〉の「信心の秘められた真理(アレテー)」とは、「わたしたちが信仰することの任務」と訳して良いと思います。
 すなわち、イエス・キリストはこの世の目に見えるかたちで現れ、われわれを真理へと向かわせ、天の応援を得ながら、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、よみがえって神の右に座しておられる。〈316
 「イエス・キリストについての単純なことが書いてあるなあ」と思われるかもしれません。
しかし、パウロは、わたしたちに、今、全世界にそのことを宣べつたえなさいと言っているのです。この単純な、重大な励ましの言葉を宣べ伝え続けましょう。

2022年7月17日

(説教要旨)
                                             
「十字架のつまずき 」山本光一牧師
                               
〈 ガラテアの信徒への手紙 5211節 〉
 先週は〈使徒言行録13章〉、今週、来週は〈1テモテ3章〉。聖書日課はどうしてこんなテキストの選び方をしているのか、だんだん分ってきました。

舞台は小アジアです。この3つの箇所はパウロのアジアからギリシャ・ローマと拡大する伝道旅行の最初に、彼が直面していた問題を報告したいのです。
 彼が直面していた問題は、今朝の箇所に顕著です。パウロは冒頭でキリストから与えられた自由を堅持し、再び奴隷状態に逆戻りすることが無いよう〈51〉、ガラテアの教会に勧めていますが、彼が言う奴隷状態とは、ガラテアの教会に居る律法主義的ユダヤ人キリスト者たちによる割礼の要求に屈することを指していました。
 律法主義的ユダヤ人キリスト者たちは、割礼を受けることがキリストに反するとは考えていなかったでしょう。割礼を受けることはアブラハムの息子イサク〈創世記17914〉以来のユダヤ人の伝統であり、ユダヤ人の常識であったのです。しかし、パウロは「律法によって義と認められようとするのか」と、断固、割礼を受けることを拒否します。
 〈59〉以下の「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させる」の「パン種」とは割礼を受ける要求に屈することです。そうなれば、律法によって神の義を得ようとし、奴隷状態に逆戻り、つまり、「律法を遵守しているからわたしは正しいのだ」状態に逆戻りしてしまう。そうパウロは考えたのです。それはパウロによれば「死と束縛と絶望」〈31011〉の状態への逆戻りを意味していたのです。
 わたしたちキリスト者の品行方正とは、律法を守ること、即ち日本の法律を守り、日本の常識を守り「わたしたちは正しいのだ」と満足することではありません。わたしたちキリスト者の品行方正とは、「愛によって働く信仰だけ」です。「愛によって」とは「神からの愛によって」という意味です。

 

わたしたちは、まず最初に神からの愛を受けていることを信じ、自ら実践し、そして、全き自由を得るのです。Mルターは、キリスト者の自由について、全ての人に仕える奴隷となることによって、我々は全き自由な者であると言っています。
 このことは、イエスの十字架にはっきりと示されています。イエスはすべての人の奴隷となることによって、陰府の死からも自由であったのです。〈511〉の「十字架のつまずき」とは、パウロが「迫害を受けている」〈511〉ことを指しています。迫害を受けることもあるでしょう。しかし、それは自由への道なのです。

2022年7月10日

(説教要旨)
 
           「神の歴史 」  山本光一牧師
 
       〈 使徒言行録131332節 〉
 〈使徒言行録〉は、9章に至って主役がエルサレム教会のペトロからパウロに交代します。パウロの宣教活動は、野火のように小アジアに拡大しはじめます。
 パウロは小アジアのパンフリア州、ピシディア州のアンティオキアに進みます。(聖書にある地図「7パウロの宣教旅行1」をご覧ください)。そこで、パウロは会堂長に促されて説教を始めます。
 聴衆は、旧約聖書に精通したユダヤ人たち、そして、「神を恐れる」人々(ユダヤ教に改宗した人々)です。ですから、パウロは会衆が良く知る歴史を語り始めるのです。
 パウロが語るイスラエルの歴史の主語は、神です。神は、先祖アブラハムを選び〈1317〉、エジプトから脱出させ、カナンの地(パレスチナ)を相続させます。
 「カナンの地では7つの民族を滅ぼし」〈1319〉という表現には批判的意図はありません。アブラハムにした神の約束が成就(実現)したと述べているのです。この記述がパレスチナ占領を正当化するイスラエルのシオニストに利用されていることに気を付けなければなりません。
 パウロの説教はサウル、そしてダビデに至り、イエスに集中しはじめます。
 ルカ福音書には、わたしたちの罪の為にイエスは身代わりになられた〈マルコ104〉という贖罪論は存在しません。神はイスラエルを解放し、約束の土地を制服し、ダビデのような指導者をお与えになったように、神は、イエスを導き、ローマ帝国からイスラエルを解放されるであろう。これが使徒言行録におけるパウロの主張です。パウロの手紙においてパウロが書いていること(例えば〈1コリント153〉とはずいぶん違います。
 使徒言行録は、パウロの説教として、イエスは人々や指導者たちの無知によって罪に定められ〈1327〉、ローマとの共謀によって十字架につけられた〈1328〉と記述します。
 使徒言行録(つまり著者のルカ)は、贖罪論などどうでも良いのです。ルカがどうでも良くないのは、イエスは神が先祖に与えられた約束通り〈1332〉復活され、そしてその証人が存在するということです。ルカはパウロに語らせながら、アブラハムへの約束以来の神の救済の歴史は、イエスの死からの復活に至り、そして、あなたがたの立ち直り(アナスタシス、復活)に至っているのだと言いたいのです。

 

 ですから、わたしたちの信仰者としての歩みは神の救済の歴史に確信を持つことに大いに関係しているのです。暗黒に満ちているかのような、希望を見出せないようなこの私たちの歴史に、神の救いの業が働いていることに確信をもって歩みましょう。

2022年7月3日

(説教要旨)

              「 預言者の故郷 」山本光一牧師
                  〈 マルコ福音書616 節 〉
 神の言葉を預かる預言者が働くには、預言者の言葉を聞く側の態度が決定的に重要なものである。これが今朝の箇所の結論であろうと思います。
 今朝の箇所は〈マタイ〉〈ルカ〉にも並行記事があります。〈マルコ〉と〈マタイ〉にはほとんど異同はありませんが、〈ルカ〉の記事は〈マルコ〉とずいぶん違って、イエスの言葉を聞いた人々はイエスを会堂から追い出したと書かれてあります。
 なぜ追い出されたのか。イエスは〈イザヤ書611〉を読まれた後、「医者よ、自分自身を治せ」〈ルカ423〉と言われます。つまり、イエスは「他の人のことを言っているのではない。あなた自身のことを言っているのだ」と言ったので、そこに居た人たちは怒ってイエスを追い出してしまったのでしょう。
 わたしたちも、その言葉が自分自身に向けて語られていることを拒否する場合があります。「あれは他の人について語られていることだ。わたしのことについてではない」と。
例えばイエスが会堂で読まれた〈イザヤ書61章〉の場合、わたしたちはこれをどう読むでしょうか。〈ルカ福音書4章〉に引用されているイザヤ書61章を読んでみましょう。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」
 「わたしたちは、貧しくなく、捕らわれていなく、目が見えないわけでもなく、圧迫されてはいない」と思うでしょうか。いや、わたしたちは、実際、貧しく、捕らわれており、目が見えなく(理解できず)、圧迫されているのです。この言葉は、わたしたちに解放と回復と自由と恵みを伝えているのです。
 さて、みなさん。教会の魅力は、そこに居てホッとできることが魅力なのだと思います。
しかし、神の言葉を聞く教会は、しばしば胃が痛くなるほどの自己変革が迫られる場所でもあります。これも教会の大きな魅力であるとわたしは思います。
 「(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」〈66〉とは、人々が自己変革を望んでいないことに驚いたという意味です。
 人々は自己変革を望んではいなかった。これは聖書に一貫した証言です。パウロは〈ロマ書 9~11章〉でこの問題を深刻に取り上げ、〈ヨハネ福音書〉は冒頭で「このかたは、自分の民のところへ来たが、その民はこのかたを受け入れなかった」〈111〉と書いています。預言者エレミヤは神から預言者として立つように命ぜられたとき「わたしは若者にすぎませんから」と言って断りました〈エレミヤ 16〉。若者の言葉など誰も聞かないと知っていたからです。
 今朝の箇所でイエスが会堂で教えておられると、人々は驚いて言います。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」〈62〉。この言葉は後に続く言葉から「イエスよ、なんと一人前なことを」という意味の侮蔑の言葉だということが分かります。
故郷の人々はイエスが何者であるかを知っているつもりだったのです。イエスからは神の言葉を聞くつもりはなかったのです。この態度はイエスの身内が「あの男は気が変になっている」とイエスを取り押さえに来たことに極端に現れます〈マルコ321〉。
 しかし、みなさん、神の声は意外な時に意外な場所から聞こえてくるものです。自己変革は、意外な時に意外な場所から迫られるものです。今朝の箇所はわたしたちにそう訴えたいのではないでしょうか。

2022年6月26日

(説教要旨)

               「 諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ 」 山本光一牧師
 
           〈マタイ福音書181014節 〉 
 (今朝は、子どもたちに向けてお話しますので、ここに書いてある通りにはお話しません)
 今朝の箇所と同じ物語単元が〈ルカ福音書15章〉にもあります。〈マタイ〉には「悔い改める一人の罪びとについては」(居るべき場所に回帰する一人の「罪びと」とされた人については)という言葉がないので、今朝の箇所のほうが物語の原型に近い(古い)と思われます。
 羊に譬えられる〈ルカ〉の「罪びと」は、〈マタイ〉では「迷い出た」という言葉となっています。羊は〈ルカ〉も〈マタイ〉も同じ状況に置かれています。即ち、〈ルカ〉も〈マタイ〉も、病人である、穢れたものを扱う仕事をしている。外国の利益に貢献しているなどの理由で「罪びと」とされてユダヤの社会から排除された人たちを指しているのです。
 99%は居場所を確保し、排除されてはいないのでしょう。しかし、その99%によって1%が排除されているのです。わたしたちの社会も同じです。同性愛者などのセクシャルマイノリティであること、在日外国人であること、心身障碍者であること、少数であることが排除の原因となっているのです。そして、そこにはパラダイムとも言える規則や規範が存在しているのです。
 今朝の物語は、規則や規範(律法)によって排除されている少数者に注目をしています。そして、「ある人」〈1812〉と譬えられている神は、たった一匹(一人)に注目して、失われた居場所を、失われたその人の尊厳を回復しようとされるのです。
 今朝の説教題「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ 」は、京都に同志社という大学を創立した新島襄の言葉です。彼はこの言葉を同志社創立10周年記念式(1885)で主に教職員に向けて語りました。この言葉には彼が1年半ほど欧米に旅行していた最中に大学が7人の学生を退学処分にしたことが念頭にあったと言われています。牧師であるわたしは「同志社は隆なるに従ひ機械的に流るゝの恐れあり」という彼の言葉と共に、この言葉を身を正す言葉として来ました。  
「人一人」という言葉について、高橋虔という神学部の教授は「他者として接することだ」と説明しました。他人と他者とは違います。「他者として接するとは、その人を、神が造られたものとして自分とは違うその人のままで尊重することだ」と。S.ヴェイユがいう「本当の愛は、なにかしらその人への無関心を含む」という言葉と意味が似ているかもしれません。
 誰一人として我々が造った規則や規範によって排除されてはならない。その一人は神様が造られた掛け替えのない一人なのであり、神によって居場所と尊厳を回復されたその人こそ我々とこの社会に大切なものを示すのだ。そう今朝の箇所は言うのです。

2022年6月19日

(説教要旨)
                 「 伝道の始め 」 山本光一牧師
 
            〈使徒言行録4章13~31節 〉
 「変な場所からテキストを始めるものだ」と今朝の聖書日課の箇所を読み、「題をつけるとすれば、伝道の始めだな」と思いました。しかし、勉強した註解書は、わたしの理解とは全く違う解説をしていました。今朝はこの註解書の解釈を採用してお話します。
 この註解書が注目していたのは、権力者たちの脅しに教会はどのような態度で居たか、でした。
 今朝の箇所の4章の始めは、イエスの復活を証言するエルサレム教会のペトロとヨハネが、祭司、神殿の守衛長、サドカイ派によって逮捕され、次の日、議員、長老、律法学者、大祭司たちによって取り囲まれる場面から始まります。
 当時のユダヤ社会の権力者が勢ぞろいです。これらのユダヤの権力者たちは、恐れていました。ペンテコステの日に3000人の人々がペトロの説教を聞き、洗礼を受けました〈241〉。この日には「二人の語った言葉を聞いて信じた人は男の数が5000人ほど」になりました〈44〉。権力者は数を恐れます。「イエス騒動は大衆運動に発展する危険がある」そう思ったのでしょう。治安維持能力の有無をローマ帝国に問われて、折角の地位を奪われることを恐れたのでした。
 そもそも教会が「イエスはキリスト(救い主)です」と告白するその短い言葉が「ローマ皇帝はキリストではありません」と言っているのと同じでしたから、権力者たちは、この変なユダヤ教の一派であるキリスト教会の動きを恐れていたのです。
 そこで権力者たちは、権威主義的な指導者がいつもとる手段を発揮します。即ちペトロたちに黙っているよう命令するのです〈417〉。権力者たちのこの態度は昔も今も変わってはいません。 

 さて、みなさん。もし、わたしたちの教会が権力者たちに脅されたら、わたしたちはどうすべきでしょうか。権力者たちの脅しに沈黙すべきでしょうか。
あるいは権力者たちの要請を先き取りして、積極的に協力し、教会の市民権を確保しようと試みるでしょうか。戦争中の日本基督教団はそうしました。陸海軍航空隊に戦闘機を献納する献金運動を熱心に行い、日本軍が占領支配するアジア諸国のキリスト者には「この戦争はアジアから欧米の勢力を排除する天皇の聖なる戦争なのだから一層戦争遂行に協力するように」との書簡を送りました。教団の、この戦争協力の歴史は無かったことにはできません。 

ペトロたちはどうしたでしょうか。ペトロたちは「大胆にみ言葉を語る」〈429〉ことを試みたのでした。教会は、神に「大胆にみ言葉を語る」力を、ただその一つを求めたのです。「大胆さ」は使徒言行録(ルカ)が教会に見出した美徳です。〈229413927
 パウロは牢獄でイエスの言葉を聞きます。「恐れるな、黙っているな、わたしがあなたと共にいる。あなたに危害を加える者はない。この町には私の民が大勢いる」〈189,10
 そうです。この市原の町にも、すでに、「神の民が大勢いる」のです。
イエスは人々に、わたしたちに何と言われたか。イエスは「あなたがたは、実は罪びとではない。神はあなたがたをそのままで善しとされている」と言われたのです。このイエスの福音をこの町の人たちに伝えるのに何の躊躇も必要ありません。恐れる必要もありません。これにアーメン(ほんとうにその通りです)と言う人は必ず居られます。この町に、大胆にイエスの福音を語りましょう。

2022年6月12日

(説教要旨)

                「 主において喜ぶ 」 山本光一牧師
          〈フィリピの信徒への手紙 3章 1~11節 〉
 今朝の箇所には〈31〉に一度しか「喜び」という言葉はありませんが、実に、パウロの喜びが表現されている箇所です。
わたしたちは「パウロはどこに自分の存在価値、居場所を見出したか」という設問をしながら今朝の箇所を読みたいと思います。
 「あの犬ども」〈32〉。最初の教会の、キリスト者の多くは、ユダヤ人でした。彼らはキリスト者となる前、ユダヤ教徒としてエルサレム神殿を仰ぎ、割礼を受け、安息日などの律法を守っていました。
そして、キリスト者となっても、その信仰的習慣は捨てきれていなかったようです。
 フィリピはギリシャにある大きな町です。その教会にはユダヤ人の習慣を身に着けていないギリシャ人信徒がたくさん居たはずです。
 パウロが彼らを警戒せよ〈32〉と言ったのは、律法主義キリスト者がギリシャ人(異邦人)たちを「律法を厳守するよう」指導し始めたからです。(彼らはエルサレム教会から派遣された人たちかもしれません)。
割礼みたいなものは切り傷にすぎない〈32〉と言うパウロは、彼もまた熱心な「非の打ちどころもない」ユダヤ人、ユダヤ教の律法学者でした。〈356
 しかし、パウロは嫌になってしまったのだと思います。何が嫌になってしまったのか。
パウロは「律法から生じる自分の義」〈39〉と表現していますが、律法を厳格に守ることによって自分で自分が正しいことに満足し、翻って他者を(律法を守っていないので)裁く毎日が嫌になってしまったのだと思います。
 パウロはキリスト者になることによって、ユダヤ共同体の一員(肉;〈34〉)、ユダヤ教律法学者の地位を失いました。しかし、彼は自分の過去を「損失」〈37〉「塵あくた」〈38〉だと言っています。
 わたしたちは何に自分の存在の意義、あるいは居場所を見出そうとしているでしょうか。
「生産性がある」ことでしょうか。「手に入れた商品」でしょうか。「知識を身に着ける」ことでしょうか。いづれも魅力的な、自分で自分の存在意義を見出せるものであるとは思います。
 しかし、〈38〉に「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました」という言葉があります。
「生産性がある」ことでしょうか。「手に入れた商品」でしょうか。「知識を身に着ける」ことに自分の存在意義を見出すことを辞めた。神様は、そこに自分の存在意義を見出されないだろうと思ったのです。
存在の意義あるいは居場所は、他者から与えられるものです。
わたしたちは母親から、父親から、周囲の人たちから愛されることによって、「自分は貴重な存在なのだ」と自覚できているのでしょう。
パウロは、神から与えられたものを見出したのです。
神の義(善しとの宣言)は、わたしたちの生産性に、持っている商品に、知識に存在意義を見出されません。「ただ、そこに在る」ことを善しとされるのです。
わたしたちは神の愛の中に在ることをパウロと共に喜びたいと思います。

2022年6月5日

(説教要旨)
                      「 多様性の一致 」 山本光一牧師
 
                  〈使徒言行録2113節 〉
 今日は、教会歴における聖霊降臨主日(五旬祭・ペンテコステ)です。ペンテコステとは50日目という意味で、この日は復活主日から数えて50日後の日です。今朝の箇所には「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」〈23〉と書かれてあります。今朝はこの言葉に注目したいと思います。
  「皆と同じ」。わたしたち日本人には強制力がある言葉です。先日「マスク社会日本におけるスパイト行動」という面白い文章を読みました。スパイトはいじわると訳してよいと思います。「わたしたちが苦労し・損をしているのに、なぜあの人だけは楽をして・得をしているのだ」と不愉快に思う心理です。 コロナ禍において、日本人はマスク着用率が高かったと言われ「マナーのある国民だ」と褒められていますが、この文章は「マスク着用率の高さにはスパイト心理が働いたのではないか」と推測しているのです。
 聖書に登場するスパイト行動の例は〈マタイ福音書20116〉のぶどう園の、一日中働いた労働者の不満に現れます。一日を終えて雇主(神様)は、労働者に同じ賃金を支払った。しかし、「あなたは同じ扱いをされた」〈1612〉と不満を漏らす一日中働いた労働者は「平等ではない」と主張します。いや、神様はぶどう園の労働者を平等に扱われたのです。

 パウロは〈1コリント121226〉で教会の人々を足、耳、目、手、頭と働きが違うひとつの体の部分として表現しています。そして「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」〈1210〉と、体(教会)に違う部分があることを喜んでいるのです。コリントの教会は、この時、われわれと違うからおまえは要らないと言い合っていたのでしょう。パウロは、それぞれ違うからキリストの体なのだと言ったのです。
 Kバルトは、聖霊とはわれわれを真理に向かわせる力と説明しました。単に、わたしたちが真理に向かうというだけではなく、わたしたちを真理に向かわせる上からの力があるのだ、それが聖霊だと説明したのです。
 今朝の箇所において聖霊は「分かれ分かれに」、「一人一人に」現れます。その一人一人はいろいろな言葉で語り始めます。 これが教会のはじまりを描いた場面です。
 いろいろな国の言葉で語ったとは、つまり、一人一人は、同じではないのです。教会は一人一人が同じでなければならないわけではないのです。教会は、初めからそこに集う人々の多様性があることを喜ぶ群れです。一人一人違うから教会はキリストの体なのです。

2022年5月22日

                       「苦しみの先に 」 山本光一牧師
 
             〈ヨハネ福音書161224節〉

 

 今朝の箇所の聖書日課における位置は、聖霊降臨日(ペンテコステ)に備えるものですが、今朝は、テキストの後半について解説をいたします。今朝の箇所は、イエスがこの世を去った後、聖霊があなたがた(弟子たち)を助けるであろうとイエスが言われる箇所です。
聖霊という言葉は、ヨハネ福音書に於いては、「弁護者」(パラクレートス)〈14:1614:2615:26167〉、「真理の霊」〈1612〉という言葉となっています。
 弁護者の役割は何か。〈1426〉では「助け主、すなわちわが名によりて父の遣わしたまう聖霊は、汝らに、よろずの事を教え、またすべて、我が汝らに言いしことを思い出さしむべし」(文語訳聖書)。つまり、弁護者の役割は、真理を教え、イエスの言葉を想起させる役割だというのです。
 今朝の箇所にいう「今、あなたがたは悲しんでいる」「わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」は、これを読むヨハネの教会の人々が、キリスト者としてさまざまな迫害を受けているが、それはそんなに長く続かない。すぐに来られるイエスの再臨の時、すなわち歴史の完成の時、神の全き支配が始まる時に、あなたは喜びにみちるであろうという言葉として理解しました。
 しかし、未だにイエスの再臨の時は延期されています。つまり、今、聖霊の別名である弁護者の役割は終わってはいないのです。弁護者は、今、わたしたちにイエスの言葉を想起させ、わたしたちを真理に向かわせようとしているのです。
 さて、みなさん、この箇所を読むわたしたちは、次のことが問われると思います。
「わたしたち自身が悲しみと苦しみの只中に在る」と自覚できているのかということです。
わたしたちは、案外、自分たちが悲しみと苦しみの只中に在ることを見つめようとせず、「気楽にたのしくやっている」と思いたがっているのではないでしょうか。
戦後、GHQの3S政策(スポーツ、スクリーン、セックスの3つによって、政治的無関心を形成する政策)は、わたしたちをそのような心境にさせる役割を果たしたかもしれません。すべてのニュースが、わたしたちに危機感を抱かせるものではなく、実は、他人事。「日本って平和だ」と笑って済ませることができる。そんなニュースを5時間でも6時間でも見ている。  
 そんなことをしているうちに、ウクライナの難民のことが気にならず、日本に深刻な貧困が拡大しつつあることは気にならず、人類の生存が危い地球環境になりつつあることも気にはならなくなり、「そんな暗い話題はいいわ」と思い始めてしまう。
そうしているうちに〈162324〉にある「父(神)に願う」という必要もなくなるでしょう。
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満たされる」〈1624〉は、絶望的な状況にある弟子たちを励ますための、「決して希望を失うな」という意味の言葉です。
 わたしたちが必死に願うとき、神はかならずわたしたちの願いに応えてくださいます。戦火がなくなるよう、経済格差がなくなるよう、環境破壊をなくすことができるよう、状況がどんなに絶望的であっても、真剣に神に願うわたしたちでありたいものです。

2022年5月15日

(説教要旨)
                  「神の民 」 山本光一牧師
 
                 〈ヨハネ福音書15章 111節 〉
 「わたしはまことのぶどうの木である」。この「わたしは~である」という句(エゴー・エイミ句といいます。英語で言うとam” )は、ヨハネ福音書だけで、イエスの言葉として26回登場します。
 今朝の箇所は、述語(補語)を伴っているヨハネ福音書中にある7つの句のひとつです。
その7つのエゴー・エイミ句とは、「わたしは命のパンである」〈63551〉、「世の光」〈81295〉、「羊の門」〈1079〉、「よい羊飼い」〈101114〉、「よみがえりであり命」〈1125〉、「道であり真理であり命」〈146〉、「真のぶどうの木」(今朝の箇所)の7つです。
このリストをご覧になって不思議に思いませんか? イエスは何者であるかを伝えたいヨハネ福音書において、わたしたちがイエスについて告白する第一のものである。「主」と「キリスト(救い主、メシア)」がありません。イエスの言葉として「わたしは主でありキリストである」という言葉がないのです。
ブラウンという人の「ヨハネ福音書」の註解書には、これについて下記のように説明しています。
 他の福音書において「エゴー・エイミ」という言葉が登場する箇所が4か所あります。
ひとつは、イエスが湖の上を歩く奇跡の箇所です。船上の弟子たちが幽霊だと恐れていると「わたしだ。おそれるな」とイエスが言われます〈マルコ650〉。ふたつ目は、エマオに向かう弟子たちに復活のイエスが現れ「あなたがたに平安あれ」と言われます。ここは、実は「エゴー・エイミ。恐れるな」という言葉です〈ルカ2436〉。
3つめは、イエスが「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って多くの人を惑わすだろう」と言われます。「わたしがそれだ」の箇所はエゴー・エイミという言葉です〈マルコ136〉。
最後は、イエスが最高法院に囚われて尋問を受け「皆の者が、『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた『わたしがそうだとはあなたがたが言っている』」と答えます。「わたしがそうだ」の箇所がエゴー・エイミです〈ルカ2270〉。
3
番目と4番目に顕著ですが、ブラウンという人は註解書において「エゴー・エイミという句は、それ自体で救い主(メシア)であることを意味している」と書いています。
 葡萄は、B.C. 15世紀から(エジプトの影響を受けて)パレスチナで栽培され、旧約聖書には、神の民、イスラエルを譬えるものとして何度も記述されていました。今朝の箇所において、ぶどうの木という言葉の前にわざわざ「まことの」という言葉があるのは、この木は他の木と違っていることを示しています。どこが違うのか。この木は、「救い主イエス」と同義です。そしてその木は神の愛に充たされています。そこが違うのです。
 〈ヤコブ書〉に「ぶどうの木からいちじくの実が成るか」という言葉があります〈313〉。木の枝であるわたしたちは、救い主イエスの実を結ぶのです。「実を結ぶ」とは「行う」という意味です。わたしたちは、まことのぶどうの木の枝に相応しく歩み続けたいものです。

2022年5月8日

(説教要旨)
               「真理はあなたがたに自由を与える  」 山本光一牧師
 
                 〈ヨハネ福音書83138節 〉 
 真理はあなたがたに自由を与える。この言葉は皆によく知られていることばです。日本の国立国会図書館の受付の梁にもギリシャ語とその右には日本語訳で「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。(「われら」との訳は誤訳です。)
 真理は神とイエスの属性です。〈ヨハネ146〉人間の属性ではありません。誰も「わたしは、わたしの行いは、わたしの言葉は真理である」とは言えず、真理は人間の遥かかなたにあるということです。
 イエスは、わたしたちに真理に向かう道を提供してくれています。つまりイエスに従うことを提案してくれています。聖霊の働きもわたしたちを真理に向かわせます。しかし、わたしたちはその真理に向かう者であって、あるいは、その真理に従おうとするものであって、真理そのものではありません。
 「真理はあなたがたを自由にする」。つまり、イエスは「今、あなたがたは不自由だ」と言うのです。
それを聞いた人たちは「誰かの奴隷になったことはない」と反論します。〈833〉。
イエスはそれに応えて「あなたがたは罪の奴隷です」と言います。
 パウロは律法が絶対的なものではなく相対的なものであることをよく理解していました。
パウロは「律法があるから、わたしたちは罪びとになるのだ」と言っていますが、わたしたちは、律法という言葉を法律や常識という言葉に置き換えて理解してもよいと思います。
 イエスは「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」〈836〉と言われます。つまり、神の子であるイエスが、「あなたたちは罪びとではない」と言えば、あなたたちは罪(律法)から自由になる。と言われるのです。
 わたしたちは真理そのものではなく、真理を手中にしていませんが、しかし、真理に向かうこと、あるいは、その真理に従おうとすることは必要であると思います。
 ロシア国内でウクライナへの軍事進攻に反対することが困難になる中、ロシア国外に在る学者、作家、芸術家たちが、反戦の動きをつくるために「本当のロシア」というウェブサイトを立ち上げました。代表者であるボリス・アクーニンは日本語でわたしたちにこう呼びかけています。
「プーチンのロシアと本当のロシアは違います。本当のロシアはドストエフスキー、トルストイ、チェーホフの国です。プーチンのロシアはなくなり、本当のロシアが残るでしょう」。 わたしたちもまた、真理を大切にする生き方を選びとりたいものです。

2022年5月1日

(説教要旨)

               「言葉と戦車」〈ホセア書1章 〉 山本光一牧師
「教会は、人々の心の問題に集中して、政治的発言はしないほうが良い」という意見を時々聞きます。しかし、わたしは「いったい政治的発言をしなかった預言者など居たのだろうか」と思います。
 旧約聖書に登場する預言者たちは常に「言葉と戦車」の問題に直面していました。北からのアッシリア、バビロニア、南からのエジプト、西からのローマといった大帝国からの侵略にどう立ち向かうか。人々は常にこの問題に晒されて、戦車を、武力を頼りにしてきました。
しかし、預言者たちの中で「武力で抵抗するな」と言った預言者がいます。イザヤとホセアです。
ホセアは、家庭問題に終始する預言者のイメージがありますが、ホセアと妻ゴメルとの関係は、神とイスラエルの関係に譬えられているのです。北のアッシリア、南のエジプトの脅威に晒されていたB.C. 8世紀の北王国イスラエルで約30年間活躍した預言者です。
 現在、日本では「だから、ウクライナのようなことにならぬよう、自衛隊の戦力を増強しなければならない」「憲法第9条が夢物語であることがウクライナで証明されたではないか」などという論が強まっています。
このような論に出会う度に、わたしは加藤周一の『言葉と戦車』という本を思い出します。
 1968年の8月、言論統制の解除など「プラハの春」を謳歌していたチェコスロバキアに、ソ連軍などワルシャワ条約機構の1500台の戦車が国境を超えてプラハに侵攻しました。この時、東欧で一番強力な陸軍を保持していたチェコスロバキア陸軍は動きませんでした。
代わりに市民が抵抗します。「1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」(加藤周一『言葉と戦車』)
 ソ連軍の戦車が到達した地域の発電所は、電気の供給が止まり、水道局は水道を止め、プラハ市内の住居表示はすべて取り去られ、道路方向表示も取り去られて「こちらがモスクワです」の表示に替えられ、無数の秘密印刷所によって市民新聞が発行され、無数の秘密放送局から占領軍の位置情報などが放送され、そして、なにより、戦車の前に座り込んだ無数のプラハの青年たちのソ連戦車兵との対話がはじまります。
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万の大軍がチェコスロバキアを占領しましたが、チェコスロバキア政府の発表においても死者は50人に満たず、負傷者は数百人でした。「およそ東京一か月の交通事故に相当する死傷者であった」(加藤周一)
今朝のわたしの話は、ウクライナのことは念頭にありません。1968年のプラハ事件と現在のウクライナ情勢と比較する気もありません。
今朝のわたしの話は、「日本が武力で侵攻された場合に、わたしたちはどうするのか」と言ったウクライナ情勢を利用した自衛隊の増強論に対するものです。
 結局、チェコスロバキアは「共産党の指導的役割の擁護」「検閲の復活」「非共産党系政治組織の解散」「改革派主要メンバーの更迭」を柱とする「モスクワ議定書」の締結を余儀なくされ、ソ連軍はその後20年間チェコスロバキアに居座り続けます。戦後77年間日本に米軍が居座り続けているのと同じですね。
 神は、ホセアに「わたしはイスラエルの弓を折る」〈15〉と言われ「ユダの家には憐みをかけ、彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い。馬、騎兵によって救うのではない」〈17〉と言われます。つまり、神は、弓を折れ。武力によって抵抗するな。わたしがあなたがたを救う。と言われます。 「現代の国際政治において武力を行使するな」などという論が通用するか、と言われるかもしれません。主の救いの業は実現するのでしょうか。わたしは実現すると思います。

 

 文部省が194748年の中学生に『あたらしい憲法の話』で戦力の放棄を教えた箇所には、こう書かれてあります。
「これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。しかしみなさんはけっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことをほかの国よりさきに行ったのです。正しいことぐらい強いものはありません」
 文部省はこの本を捨ててしまいましたが、わたしはこの本を何度でも子どもたちに読んで聞かせようと思います。
これから国際社会のありようを探らざるを得なくなる子どもたちに「正しい道はこれだ。軍備不要の世界を創ろう。日本はその先駆けとなろう」と伝えたいと思います。

2022年4月24日

(説教要旨)
   
                「 目に見える姿で 」山本光一牧師
 
                  〈ヨハネ福音書201931節 〉 
 弟子たちが、「主イエスはよみがえられた」と告白しはじめます。それは弟子たちの立ち直りを示すものでもありました。その立ち直り(アナスタシス)は、神の救いの業にふたたび一生をかけると決意したことに始まったと思う、と先週お話しました。
 弟子たちが「わたしたちは立ち直った」とは言わず、「イエスはよみがえった」と言い始めたのはなぜか。「わたしたちの立ち直りには、そこに神の救いの業が働いていた」と言いたかったからです。わたしたちが会堂建築をして「わたしたちが建てた」とは言わないで「神が建てられた」と言うのと同じだと思います。
 今朝の〈ヨハネ福音書〉によれば、「イエスはよみがえった」はイエスの墓にいたマグダラのマリアから弟子たちに伝えられたことでした〈2018〉。次に、弟子たちが証言したのは「イエスはわたしたちのところに目に見える姿で来られた」でした。〈2019以下〉
 話はすべて「イエスの墓は空だった」から始まっています。「墓が空になったのは、誰かが持ち帰ったからだ」ということにしたい人たちはたくさんいたでしょう〈マタイ281115〉。たぶん、ヨハネ福音書が書かれる頃にもいたのでしょう。合理的に説明されているようで、しかし、弟子たちの生き方を止めることはできませんでした。
 弟子たちが告白する「イエスはよみがえられた」は、次のことも意味するでしょう。つまり、弟子たちによるイエスのガリラヤ宣教が再開されたということです。イエスの福音(イエスの言葉、行い、出来事)が、弟子たちによって引き継がれたということです。そして、それは今に至るまで引き継がれています。ここに京葉中部教会があるように。
 「キリスト教会が2000年間も継続したその原動力は何だったのか」と、しばしば思います。

その原動力とは、神の救いの業を信じる者の存在だと思います。
 「聖書という経典があったから」という説明もありますが、聖書を読んで神を信じる人が居なければ聖書はただの本です。キリスト教を継続する力にはなりません。
 キリスト教会を2000年間継続させた力は、聖書の言葉であり、そして、それを信じてキリスト者として生きた人たちの後ろ姿だったと思います。つまり、キリスト教を2000年間継続させた後、それを継続して行く力は、わたしたちにあるのです。
 「いや、そんな力はわたしにはありません」と言われるでしょうか。

では伺います。わたしたちの何を人々に見せるつもりでしょうか。
偉そうな社会的地位でしょうか。財産でしょうか。何かの優れた能力でしょうか。高潔な人格でしょうか。

 

わたしたちが皆に見せるべきは、わたしたちの陰府からの立ち直り、イエスの福音に喜んでいる姿であると思います。

2022年4月17日

(説教要旨)
                  「 復 活 」 山本光一牧師
 
             〈マルコ福音書16章111節 〉
 キリスト教会が大切にしている「使徒信条」という信仰告白文(クレドー)があります。それによれば、イエスは「乙女マリアより生まれ」、次に、ガリラヤでの宣教活動のことは省かれて、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、3日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されています。
 「死人がよみがえることなどあるはずはない。キリスト教はなんて変なことを言う宗教なのだ」と思われるかもしれません。
 このこと、「イエスはよみがえった」は、イエスの死後、イエスの弟子たちがそう告白し始めたのです。
今朝はイエスの死後、弟子たちはどうしたのかに思いをめぐらしてみたいと思います。
イエスはローマ帝国への反逆罪で十字架につけられ死刑になります。マグダラのマリヤなど、女性たちだけが最後まで十字架の下に居てイエスに従いますが、弟子たちはおそろしくなって、身を隠します。
一番弟子のペトロは、「あなたはイエスの仲間だ」と言われて「そんな人知りません」と答えます。
わたしたちがこのことを聖書によんで分かっているのは、弟子たちが教会の集会でイエスが十字架につけられる日のことを証言したからだと思います。「わたしたちは、イエスが十字架につけられる日、まったく良いところがなかった」と。
 イエスの時代の埋葬方法は、遺体を火葬せずに洞窟のような墓に埋葬しました。
それでイエスの死の3日後に女性たちがイエスの遺体に没薬を塗りに墓に行きました。
しかし、イエスの墓は空でした。女性たちは恐ろしくなって墓を出て逃げ出しました・・・。
〈マルコ福音書〉の原文は、ここで終わっていたと考えられています。
つまり、マルコ福音書の記者は、「その後の話は、これを読んだあなたの人生です」と言いたかったのかもしれません。
 イエスの弟子たちはどうしたのか。いつ頃からかは分かりませんが、おそらくは、女性たちが最初にイエスはよみがえられたと言い始めたので、あのナザレ出身の大工の息子でエルサレムで死刑になったイエスは、主(キュリオス)であり救い主(キリスト)だと言い始めたのです。 
なぜ、弟子たちはこんなことを言えるようになったのでしょうか。わたしはこう思います。
 いったんは挫折した弟子たちが、もう一度神様を信じるようになったからだと思います。「私たちには出来ないが、神様なら死人さえよみがえらせることができる」と。もう一度神様の救いを信じることに一生をかける決意をしたのだと思います。
 〈ルカ15章〉にある、放蕩息子が家に戻ってきた時に、お父さん(このお父さんは、神様のことです)は、息子が帰ってきたので喜び、いちばん良い服を着せ、指輪をはめてやり、子牛をほふってお祝いをしようとします。すると放蕩息子のお兄さんが仕事から帰ってきて、面白くない。
なんで家を飛び出して放蕩に身を持ち崩したような弟に、帰ってくると宴会をしようというのか。そういいます。
するとお父さんは兄にこう言います。あなたの弟は「死んでいたのに生き返った」〈1532〉。
この放蕩息子の物語は、イエスの弟子たちは好きだったでしょうね。放蕩息子は「おれたちのことではないか」とこの物語を大切にしたのではないかと思います。
 「よみがえる」という意味のギリシャ語はアナスタシス。これは本来「立ち直る」という意味です。
ですから、「イエスはよみがえった」と言い始めた弟子たちが言いたかったことは「大丈夫、神様の救いの業があるのだから、神様がイエスにそうされたように、みなさんは立ち直ることができる」だったと思います。

2022年4月10日

(説教要旨)
                   「十字架」 山本光一牧師
              〈マルコ福音書152132節 〉
 十字架を見るたびに、わたしは「キリスト教は不思議な宗教だな」と思います。十字架は処刑道具でした。それを(おそらく4世紀以降から)教会のマーク(印)としているのです。決して、見てウキウキするような、楽しい気持ちになるようなマークではありません。
 使徒信条は、イエスの生涯を「処女マリヤより生れ」と告白しその後は、ガリラヤでの宣教の事実は省かれて、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と十字架の事実に集中します。端的に自分たちの信仰を言い現わす信条(クレド)においてイエスの十字架はその中心を成しているのです。
 使徒信条はイエスは何のために十字架につけられたのか明言していませんが、わたしたちは「われわれの罪のために」イエスは十字架につけられたのだと理解しています。
 イエスがローマ帝国の処刑方法であった十字架につけられた原因は、ローマ帝国への政治的反逆でしょう。イエスの死はローマ帝国のユダヤ支配に関係しています。 しかし、弟子たちはそこにイエスの意図を見出そうとし「何のために」と設問したのです。イエスはわたしたちに希望を与えるために、意図的に、十字架につけられたのだと弟子たちは理解したのです。
 繰り返しますが、わたしたちは信仰の中心に十字架を据えなければなりません。つまり、楽しくはない事柄に、見たくはない事柄に目を向けなければなりません。自分自身とこの世に目を向ければ、それは数え切れなくあるはずです。
 今年のレントとイースターは、ロシアがウクライナに侵攻する事態の中で迎えています。「プーチンはウクライナが仕掛けた戦争によく耐えている」と多くの人がウクライナ侵攻を支持するロシア国内で、ギリシャ正教会のイワン・ブルディンというロシア人神父は礼拝説教と教会のホームページでロシア軍のウクライナ侵攻を批判し、拘束されました。319日のBBCのインタビューに彼は「流血はいかなる理由があろうとも罪です。それを命令する行為も罪です。それを支持することも罪です。そして、沈黙していることも罪です」と応えています。正当な神父の行為であると思います。わたしはこの神父の行為にロシアの希望を見るのです。
 教会がそのマークとする十字架の意味は何か。わたしは、十字架は神の痛みを表しているものだと思います。わたしたちの、この世の罪に、神は痛みを覚えている。
 しかし、神はなんとかしてわたしたちに希望を与えようとされている。それが、十字架につけられたイエスの姿、神がわたしたちと共に居られる姿なのだと思います。

2022年4月3日

(説教要旨)

                    「受難の予告」 山本光一牧師
 
                 〈マルコ福音書82733節 〉
 イエスをキリスト(救い主)であると信じることは何を意味するのか。
これが今朝のテーマです。今朝は、イエスと弟子たちの代表ペトロが言い争う場面で話を終えます。
 今朝のテキストは、16章あるマルコ福音書のちょうど中間地点に在ります。イエスの生涯を記述しようとするマルコは、ここでイエスの生涯の大きな転換点を示そうとしているのです。ガリラヤでの宣教活動はここで終わり、そして、イエスの行動はエルサレムの十字架に向けられます。
 これまで、イエスは、弟子を招き、病気の人を癒し、湖の上を歩き、5千人に〈63044〉に、4千人に〈8110〉食べ物を与え、突風を鎮め、さまざまな奇跡を行い、さまざまな説教をします。ここまではイエスは弟子たちにとって偉大なる教師そして預言者らしい姿、そしてメシアらしい姿であったのだろうと思います。期待される教師・預言者像、そしてメシア像によく応えてくれる、成功しているイエス、すごいイエスなのでした。
 ところが、今朝の箇所に至ってイエスは「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」と訊かれ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊きます。この時、弟子たちは、人々は預言者の一人だと言っているが、(そうではありません)。わたしたちはあなたのことをメシア(キリスト・救い主)だと言います(信仰告白します)と答えます。
 みなさん、ここでわたしたちが念頭におかなければならないのは、マルコ福音書は、イエスの死後約30年後に、弟子たちが十字架につけられたイエスのことを「メシア(キリスト・救い主)であると告白し、教会をつくり、伝道を始めている時に書かれたものだということです。今朝の箇所には、イエスの死後の弟子たちの信仰が言い表されているのです。
 今朝の箇所の後半は、イエスと弟子を代表するペトロとの言い争いが記録されています。

 

イエスは、人の子(つまりイエスの自称)は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、3日の後に復活すると言われます。すると、ペテロはイエスをわきに連れて行って、いさめ始めます。「あなたはキリストなのですから、苦しみを受け、殺されるなんて言ってはいけません」聖書にはありませんが、ペトロはこんなことを言ったのでしょう。。ここで始めて弟子たちとイエスとのメシア理解の違いが鮮明になります。
 実際、史的イエスが自分がメシアだと思っておられたのか、不明です。〈820W ヴレーデ〉
今朝の箇所は、マルコ福音書が書かれた時にはイエスをメシアであると告白している弟子たち自身が、イエスと行動を共にしていた時、メシアとは何かについて誤解していたことを言い現わしているのです。
 イエスは成功するメシアではなく、失敗するメシア、すごくないメシアだった。そこに、イエスの十字架に、わたしたち弟子たちは本物のメシアの姿を見た。マルコ福音書はこれを伝えたかったのです。

2022年3月27日

(説教要旨)

 

                           「 兄弟たちと同じように 」 山本光一牧師
                        
〈へブル人への手紙 21718節 〉
 パウロが書いたとされる13の手紙のうち、「確かにパウロが書いた」とされる手紙は実は7つだけなのですが、今朝の〈ヘブル人への手紙〉は、しばしば、パウロが書いたのではないかという説が登場するのです。(この手紙の最後や〈139〉を読むと著者はパウロかなとも思いますが、著者はパウロではないと思います)。
とにかく、〈へブル人への手紙〉の著者は、律法に精通し、ユダヤ人の習慣をよく知っていたことは確かです。
 今朝の箇所でイエスは大祭司に譬えられていますが、「(罪の)贖い」が日常的にどのようにされていたのかを知れば、なぜエスは大祭司に譬えられているのかがよく分かります。
贖いの行為とは、エルサレム神殿で神に生贄をささげる行為でした。レビ記を読むと1章から5章までは「焼き尽くす献げ物」「穀物の献げ物」「和解の献げ物」「贖罪の献げ物」「賠償の献げ物」。これらについて書かれてあります。6章からはその他、施行細則。さまざまなものが神に献げられていました。
献げ物は、すべて過ちや罪を犯した場合に、その人の罪が赦される為に神殿に行ってするべき行為とされていました。
それは儀式化され、繰り返されて、その儀式の主催者がエルサレム神殿の大祭司でした。
 この手紙によれば、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」〈415〉、「世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために」〈926〉この世に「現れ」ました。〈へブル人への手紙〉の著者も、イエスの十字架を「民の罪を償うため」のものと理解しました。
17節〉の「兄弟たち」とは「わたしたち」という意味です。
わたしたちはこの世に在って、試練に遭い、苦しんでいます。〈18節〉では、〈17節〉で表現された「民の罪」という言葉が、「試練を受けている」という言葉に言い換えられています。この手紙で言う「罪」とは、〈レビ記〉に言う、いろいろな個人的過ちや律法違反のことではなく、「この世で試練を受けている」ということです。
実際、わたしたちは、狭い範囲(盆栽規模)では平安な毎日かも知れませんが、世界規模では決して平安な状態とは言えません。
 この手紙の〈724〉では「しかし、イエスは永遠に生きている」と書かれています。つまり、「一回きり」とは2000年前に一回きりという意味ではないのでしょう。やはり、青野太潮が言うように、今、イエスは「十字架につけられたまま」なのかもしれません。
イエスは苦しみ続けておられるのです。そのようにしてイエスは、わたしたちの試練を共に負ってくださっているのだと思います。

2022年3月20日

(説教要旨)
                 「 和解 」 山本光一牧師
        〈2 コリント信徒への手紙518~19節 〉
 
 パウロは、今朝の箇所で「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになった」と書いています。
1820節〉は、「和解」という言葉が5回使われています。(この訳語が登場する箇所は、福音書中パウロの手紙に今朝の箇所と〈ロマ書〉2回切りです)。この言葉は、先週お話した「贖う」と同じ意味の言葉です。
 「キリストを通して」の「通して(ギリシャ語ディア、英語through)」は、わたしたちが祈る最後に「キリストのみ名によって(通して)お祈りします」と言う時に使う用語です。この時、わたしたちはキリストによって神と和解したことを覚えているのです。
 和解とは、関係が修復されたことを指す言葉です。

今朝の箇所の場合、誰と誰の関係が離れたというのか。神と「わたしたち」〈18節〉・「この世」〈19節〉との関係です。
 誰が離れたというのか。わたしたちと世が神から離れた(ハマルテア、罪)とパウロは理解したのです。

 

 和解、そして「罪を贖う」と同じ意味の言葉は、「償いをする」と訳されて旧約聖書に何度も登場します。人々は、罪赦されるために、神殿で子羊や牛などをささげて「罪の贖い」をしたのでした。そして、その行為は儀式となって繰り返されていたのでした。先週は、贖いの行為をする主体が人々から神へ逆転した話しをしましたが、それは、主イエスにおいて起こったことがらでした。(「一度きり」の贖い〈へブル人への手紙〉)
パウロが言う和解も、神からの一方的な関係修復の行為だと言うのです。 

 パウロは〈1コリント153〉で「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と書いています。しかし、「わたしたちの罪のために」は多くの解釈を生み、その多くの解釈を整合するために「贖罪論」という大きなテーマが生じることになります。
「わたしたちの罪のために」は、福音書がイエスの生涯を書き記す時に〈イザヤ書53章〉をモチーフにしたことは確かですが、「イエスはわたしたちの罪を贖うための子羊であった」という身代わり論は「自分の罪が赦されるために誰かを犠牲とするという論は容認できない」(青野太潮)などの感想を生むことになります。
 イエスは、ユダヤの独立を願いローマ帝国の政治犯で死刑となった青年たちの一人であったかも知れません。自分が「人々とこの世の贖いの子羊である」という自覚はなかったかも知れません。
 しかし、そのイエスの死を自分の生き方に照らして解釈しようとするイエスの弟子たちやパウロが居ました。今朝の箇所の最後にある「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」とは、「では、あなたがたはどう生きるのか」という問いであるとわたしは思います。

2022年3月13日

(説教要旨)

               「 贖(あがな) い 」山本光一牧師
 
             〈エフェソの信徒への手紙 1 章3~7節 〉
 パウロは、イエスと会ったことはありませんでした。しかし、キリスト者迫害の息を弾ませている真っ最中に、イエスに出会い、彼の人生を大きく転換して伝道者として生涯を送りました。「イエスに出会い」というのは、実際は彼が迫害していたキリスト者に出会ってイエスのことを知ったわけで、パウロが理解するイエスとは、十字架と復活の内容でした。そして、イエスの十字架のことを贖いという言葉を使って「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」と表現したのです。
 「贖う」という言葉は、この言葉が頻繁に用いられる旧約聖書においては、人々の解放を指す言葉でした。そして同時に神の救済の業を指す言葉でもありました。奴隷の身であったエジプトから脱出して解放された。この経緯において、聖書はイスラエル自身の力によってこれが達成されたのではなく、神によって達成されたのだ〈申命記781352418〉。バビロンの捕囚から解放されて故郷に戻ってきた。これも神によって達成された神の救済の業だ。そう理解したのです。ですから、今朝の箇所の〈17〉にある「罪を赦された」とは、伝統的に「奴隷状態であったこの身が神の救済の業によって解放された」という意味です。
 イエス・キリストの十字架と復活について、パウロはなぜ「贖い」という言葉を使うのか。
パウロの時代の人々が日常的に見ていた光景があります。それは、奴隷(戦争による捕虜となった奴隷、借金による奴隷などいろいろな種類の奴隷となった人々が居ました)を解放するために金銭を支払う場面です。
   
「贖う」とは、わたしたちのごく日常的な行為です。「買う」という意味ですから。パウロの時代は、金銭による売買の他に物々交換の場合も多かったでしょう。
 神は、その一人子イエスの血によって、奴隷の身であったわたしたちを買い取られたのです。そのようにしてわたしたちを解放されたのです。パウロは人々が容易に理解できる「贖い」という言葉を用いてイエスの十字架の意味を言い表したのです。
 パウロ自身にとって、奴隷状態であったとは、律法を忠実に守って「だからわたしは正しいのだ」と思い込んでいた様子のことです。「贖われた」とは、神様によって愛されていることを信じることによって律法の呪縛から、必死の自己義認から、解放されたという意味です。
 ただ神の一方的な御子の差し出しによって、わたしたちが贖われたことを、解放されたことを信じて、感謝のうちに受難節(レント)の期間を歩みたいものです。

2022年3月6日

(説教要旨)

               「 悔い改め」 山本光一牧師
            〈使徒言行録261923節 〉
  悔い改め(メタノイア)という言葉について、これは福音書において、向きを反転して神に立ち返る、あるいはいるべき場所に立ち返るという意味だと説明しましたが(〈ルカ15章〉の迷える子羊、失われた銀貨;この譬え話の良き羊飼い、無くした銀貨を探す人は、「探す神様」です。放蕩息子;この譬え話の父親は「待っている神様」です。)
今朝は、「パウロは悔い改めをどう理解していたか」という設問をしたいと思います。
 その前に、旧約聖書においてはどうなのか。旧約聖書で「悔い改め」と日本語に訳されている言葉は、ヘブル語でシューブという言葉で、たとえば、ここには「悔い改め」とは訳されていませんが〈創世記8:6〉の洪水物語ではノアが方舟から烏を放った時、烏が「出たり入ったりした」と訳されています。この語は一旦離れて反転し元の場所に戻る動作を示しています。
 そして、パウロの場合。パウロの手紙の中にある「悔い改め」の用例は意外と少ないのですが、たしかにわたしたちがこれまで悔改めるという言葉を反省すると理解してきたように〈2コリント1221〉「自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔改めずにいくのを嘆き悲しむ」のような用例はありますが、パウロが「悔改め」という言葉を使う場合は、これまでの悪癖をやめるということよりも方向転換するという意味で用いています。
 パウロの方向転換とは、自分で必死になって義であることを証明する生き方を止め、(パウロはこの自分の律法学者としての栄光に満ちた過去を塵芥のようだと言っています)、神によって義とされていることを信じる生き方を始めるという内容でした。
 信仰とは反省することだと思う方は聖書中の「反省」という言葉が出てくる箇所を読んで満足して下さい。でも、それは聖書にいう「悔い改め」という言葉の意味とは違う事柄です。
 パウロが伝えたい悔改めとは、「本心に立ち返る」という生き方です。〈使徒言行録39〉「悔改めて本心に立ち返れ」。
パウロは神に立ち返るという言葉と本心に立ち返るという言葉を同じ意味で使っているのです。
それは、自分自身で自分を義とする生き方ではなく、もうすでに神様によって義とされていることを信じて感謝するという生き方です。
 最後に、ここで実は預言者ホセアの妻の話し(ホセアと妻の関係は神とイスラエルの関係)をして説教を終わろうと思ったのですが、同じような主旨なのでウクライナ情勢についてお話したいと思います。
 ウクライナを侵略しているロシア軍は、今、兵士たちの士気の低下に頭を悩ませています。当たり前です。兵士たちには戦争をする大義もウクライナ人への憎悪もないのです。
 あるSNSは、投降した若いロシア兵に、ウクライナの市民たちがパンとお茶を提供して歓迎している場面を配信していました。一人の女性がこの兵士にスマホを貸し、彼はロシアの母親に電話し、母親の顔を見て思わず泣き出すという場面でした。
市民の暖かさが武力行使に勝ち、ロシア兵は一人の青年に戻ったのです。〈ルカ15章〉にある放蕩息子の場面のようだなと思いました。放蕩息子の譬え話の父親は、遠くに息子が帰ってくるのを認め、走って寄って首を抱き接吻したと書かれています。

 

神はそのように暖かいのです。わたしたちが神の元に戻ってくることをそのように待っておられるのです。
わたしたちは、この神の愛に応えて、悔い改めの受難節の期間を歩みたいものです。

2022年2月27日

(説教要旨)
   
                 「誓うな」 山本光一牧師
 
             〈マタイ福音書53337節 〉 
 そもそも誓う気がないものですから、「どうでもよい」と思って真面目に解釈をしたことがなかった箇所を、今朝は取り上げたいと思います。
 今朝の箇所は「一切誓うな」と書いてあるので、「ありがとうございます」と安心していましたが、ところが、イエスは誓っています。〈マタイ266364〉。パウロも大事な場面で誓っています〈ロマ91〉〈2コリント128〉〈ガラテヤ120〉。今朝の箇所の最初に引用されている「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」は、「誓ったことは必ず果たせ」が要旨です。誓い放しで守れないような誓いはするな。しかし、一度誓ったなら必ず実行せよ。
 「なぜ、イエスはこのようなことを言わなければならなかったのか」と考え、他の文脈から状況を推測すると、今朝の箇所には、2つの内容が書かれてあると思います。
 一つは、律法学者への批判です。律法学者たちは誓いを2種類に分けて、神の名によって誓ったものは絶対に守らなければならないが、他のもの(天、地、エルサレム、頭〉によって誓ったものは守らなくて良いとしていたようです〈マタイ231622〉。ですから、皆も律法学者たちにならって神の名ではなく、天や地やエルサレムや頭の名で誓い、そしてまじめに実行していなかったようです。しかし、イエスは、天も地もエルサレムも頭も神のものであると指摘します。すべての誓いは神に対してするものだ、と。
 今朝の箇所の、もうひとつの内容は、神への信頼への勧めです。
 イエスは、「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい」と言われます。わたしたちが誓う場合、それは、誰かに「必ず実行する」と宣言する場面です。例えば「あなたがたをエジプトから導き出す」と誓ったとしたら、「あなたがた」に向かって約束したことになります。しかし、実際に皆をエジプトから導き出したのは、神です。皆に誓ったことが実行された場合、「それはわたしがやった」と言えるでしょうか。
  誓いは、将来の事柄について結ばれます。自分の将来は、自分で切り開いでいるかのようで、しかし、そこには神の導きがあるのです。
 
 「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい」とは、あなたがたは神の導きを「信じる」か「信じない」か、どちらかを選択しなさい。という意味です。わたしは今朝の箇所を「無理して誓わなくてよい。ただ神様の導きだけを信じて生きなさい」とイエスが言われた箇所であるように思うのです。

2022年2月20日

(説教要旨)     

                  「律法について」 山本光一牧師
                〈マタイ福音書51720節 〉
 今朝の箇所で言う「律法」は、旧約聖書全体を指しています。イエスと律法(旧約聖書)との関係、律法(旧約聖書)とわたしたちを含むイエスに従う者との関係が書かれていて、「福音書中、最も解釈が困難な箇所」と書く注解書もあります。
  聖書は、大きく新約聖書と旧約聖書に分けられます。「約」の語の意味は契約という意味です。神のわたしたちとの約束が文字化されたものが律法、そして、イエスに啓示された神の行為です。2世紀にローマで活躍したマルキオンは、「聖書は新約聖書だけで良い」と旧約聖書を廃棄しようとしました。(マルキオン自身が排除されてしまいましたが)。わたしたちも時々「新約聖書だけ読んでいればよい」という気持ちになってしまいます。
 マタイ福音書によれば、イエスの生涯は旧約聖書の背景がなければ理解できないものでした。例えば、イエス誕生の記事にある「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」〈マタイ122〉。マタイ福音書の最初の読者が旧約聖書に書かれてある神の言葉を、神の約束の言葉を信じて希望として抱いていなければ、上の言葉は不要なものでした。なぜマタイ福音書はあえてイエスはベツレヘムで生まれたと書いたのか。ベツレヘムはダビデ王の故郷だったからです。
  律法は面白い機能を持っていると思います。それは律法の規定の数ほどの犯罪者(罪人)を生み出すという機能です。律法は秩序の保持に役立つかも知れません。律法学者たちが、ありたけの「善意」と「誠実さ」を発揮してその務めを果たそうとした理由でもあります。

しかし、福音書に書かれてある通り、律法学者たちは、犯罪者(罪人)製造機でもありました。2週前の礼拝では、「罪人」と「穢れ(汚れ)」の関係について考えました。3週前の礼拝では、優秀な律法学者であったパウロが、彼の善意を全面的に発揮して律法学者としての務めを果たしてきた自分に嫌になってしまったことについて考えました。 

 今、わたしたちは旧約聖書に書かれてある文言の一言一句を忠実に遵守することによって「わたしはりっぱな信仰者だ」と思い込むことはありませんが、パウロが嫌になってしまった犯罪者製造機たる律法主義者になる可能性は充分あります。
 イエスは犯罪者(罪人)の側につきました。イエス自身が極悪人(死刑囚)として十字架に就きました。イエスは律法を廃止する為にこの世に来たかのように見える「秩序を乱す者」でした。しかし、そのようにして旧約聖書に約束されている神の愛を示されたのです。 

2022年2月13日

(説教要旨)

              「教会教」 山本光一牧師
 
         〈マタイ福音書8章1~4節 〉
 マタイ福音書は5章から7章にかけて「山上の説教」と言われるイエスが説教をされる記事が続きます。
山の上は聖なる場所と考えられていました。そこで多くの人に説教をされたのです。
 8章に入ると「イエスが山を下りられると」という書き出しから、イエスはいきなり現実世界に飛び込みます。重い皮膚病を患っている人をいやし、百人隊長の僕をいやし、多くの病人をいやしたと書かれています。
マタイ福音書記者のとても意図的な記事の編集の仕方です。
 わたしはこの編集の仕方から、教会のなすべきことが示されているように思うのです。
教会にはたくさんの心優しい人たちがいます。信徒たちの交わりはおだやかで楽しいものです。これは教会の大きな魅力です。 教会に行き始めた最初は、皆りっぱな人のように思えるが、半年もすると「どうもそうではない」と分かり、それからが気楽になって、おだやかに癒される教会生活を送ることができます。わたしは高校生の頃に下宿生活をしていましたから、寂しいので教会に入り浸っていました。
 一方、学校を卒業して牧師になろうとする時に、高校生の時から世話になっていたE牧師がわたしに話してくれた言葉を思い出します。
 「牧師の仕事は教会員の世話だけではない。教会員は放っておいても互いに交わりをして助け合う。牧師は教会員以外の方の世話をする為に教会に招かれているのだ」
 「教会教」という言葉は一般的な用語ではありません。1951年から1981年の31年間北海道で活躍したFハウレットというカナダ合同教会から派遣された宣教師が書いた自伝の本の題名 ”Beyond Churchanity””churchanity”をどう訳すか、最近、みんなで考えた訳語です。
「教会教」という言葉の意味は、教会の中だけで信仰生活を完結してしまうこと、教会の維持だけが宣教活動の目的となってしまうことを指しています。

 30年ほど前、フィリピンから派遣されたヘッドリー・カディールという宣教師は、1ヶ月ほど日本で活動をされて、別れ際に言いにくそうに、「日本のクリスチャンは盆栽クリスチャンですね」と言われました。日本に来て盆栽というものがあると知った。盆栽は小さく纏まって完結した世界を作り上げている。日本の教会は盆栽のようだ、そう言われたのだと思います。”beyond”はそこから脱却しなければならないという意味です。
 エキュメニカル・ムーブメントという言葉が(これは京葉教育文化センターの理念でもあった筈ですが)、最近、「超教派の運動」という意味で使われるようになっているのは残念です。この運動は、そもそも、教会がクリスチャンではない人々と共同でこの世の問題に取り組む運動を指していました。


みなさん、教会は今、差別が存在する現実に取り組む、あるいは立ち向かう必要があると思います。
 今朝の箇所では重い皮膚病を患っている人がイエスに「御心ならば清くすることができます」と言い、イエスは「よろしい。清くなれ」と言われます。

 

「清くなる」の対義語は「穢れる」です。
仏教、バラモン教、ユダヤ教、ユダヤ教について言うと〈レビ記1116章〉にはどのような場合が穢れとなるかを規定していますが、「穢れた者」を「罪人」としました。そして残念ながらキリスト教も。
 これらの宗教は「穢れ」という概念(教義として形成されましたから、強い拘束力を発揮します)を生み出して、これを社会階層に位置づけして固定化し、たくさんの差別される者、虐げられる者を生み出してきました。
イエスはこの現実を否として「あなたがたは、そもそも、決して穢れてはいない」と言われたのです。
 わたしたちもイエスに従って現実世界に飛び込む宣教活動をしたいものです。

2022年2月6日

(説教要旨)

                  「心の欲せざる悪」 山本光一牧師
 
                〈ローマ信徒への手紙71325節 〉
 聖書にいう「罪人」とはどのような人たちなのか。先週は福音書にある「罪人」について読みました。今朝はパウロが「罪人」であることをどう理解していたのかを読みたいと思います。ただし、今朝の箇所は(何度も解釈を試みているのですが、そして、重要な何かを示していると思うのですが)上手に解説できるとは思えません。
 Kバルトは『ロマ書講解』の、今朝の箇所を解説する冒頭で「まさに宗教的人間こそ、その本姓からして罪人なのである。宗教の為に罪が氾濫する。その結果、神の憐れみがいかなる意味をもつべきかが判明する」と書いています。パウロは「宗教人であるわたし」について今朝の箇所を書いているのです。
 パウロ書簡において「罪人」の語の用例は多くはありません。〈ロマ 3758519〉〈ガラテヤ 215217〉〈1テモテ115に2回〉のたった7箇所です。
 今朝は2か所の言葉にだけ注目したいと思います。〈ロマ58〉には「わたしたちがまだ罪人であった時」と書かれてあります。パウロは優秀な律法学者でした。先週のイエスの言葉を借りると「正しく」「高潔な」、そして「イエスの言葉に聴く耳をもたない」存在でした。パウロは正しく高潔な者として人々を裁き、罪人を大量生産する毎日に嫌になってしまったのだと思います。 パウロは〈ガラテヤ216〉で「律法の実行によっては誰一人として義とされない」と書いています。律法を守っているからわたしは罪人ではないと思い込んでいるのではなく、ただ神の義(憐れみ)によって生きることによって、わたしによってではなく、神によって今は罪人ではない。そう言いたいのです。
 もうひとつ〈ロマ519〉には「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と書かれています。「一人の人」とはアダムのことです。人類すべてが罪人であるとされた。「わたしが、今、この世に存在していること自体が罪人のそれである」というのです。自分がどれほど善意の人であっても、わたしはこの世の、アダム以来の歴史と歴史的罪(7:1921節では「悪」)を背負うて生きることから免れないという自覚でもあります。
 「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」〈719〉。善を行おうと願うパウロは「心」と「肉」の自己分裂を自覚しています〈725〉。これは宗教的人間が抱く永遠の自覚であるのかも知れません。
 わたしは善いこと、正しいことをしているつもりであるが、果たして本当に善いこと、正しいことをしているのか。それができる存在なのか、永遠に問い続けるのが宗教的人間であるのかもしれません。
結局、パウロは、ただ憐れみの神のみが善を行うという結論に至ったのだと思います。

2022年1月30日

                   「罪人を招く」山本光一牧師
               〈マルコ福音書21317節 〉
  聖書にいう「罪人」とはどのような人なのか。わたしは福音書にいう「罪人」とパウロ書簡にいう「罪人」とは内容が違うように思います。今朝は福音書にある「罪人」について読みます。
 次週は、〈ローマ信徒への手紙〉を読んで、パウロが「罪」をどの理解していたのかを読みたいと思います。
 今朝は、イエスがアルファイの子レビを弟子にする場面です。一般的に、彼はマタイとして知られています。並行記事の〈マタイ福音書〉では彼の名はマタイ。〈ルカ福音書〉ではレビと書かれています。
 彼は徴税人でした。〈14節〉にある「収税所」とは、道行く運送物に課税する所であったようです。
何度もお話しているように、新約聖書において、「徴税人」は「罪人」であるとされていました。
〈ルカ19110節〉)にあるザアカイが「罪深い男」と書かれているのも彼が徴税人であったからです。同様に病気の人も「罪人」でした。福音書には120数名の病気の人たちが登場します。
その他、「汚れ」に該当すると思われる大勢の人々が律法学者たちによって罪人と断罪されていました。
イエスは、その職業の人や病気の人は、そもそも、初めから罪人ではないと宣べ伝えたのです。そのことは、福音書においてイエスの言葉で「あなたの罪はゆるされた(ゆるされる)」と表現されています。
 今朝の箇所において、「徴税人と罪人たち」という言葉が〈1517節〉に3回くりかえされていますが、この言葉はNew English Bibleという英語の聖書では「評判の悪い人たち」(bad characters)と訳されています。たしかに徴税人は評判が悪かったようです。
燃焼とは酸素との結合であることを発見し「質量保存の法則」で有名なフランスのラボアジェも、18世紀、フランス市民革命時に革命裁判所によって処刑されてしまいました。徴税人であったからです。でも、評判が悪いだけで、イエスの目から見ると徴税人は罪人ではないのです。
 もうひとつ、Today’s English Versionという英語の聖書を読んでみると「罪人」は「見捨てられた者」(abandoned) という言葉に訳されています。〈715節〉の「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」は「多くの徴税人や見捨てられた者たちもイエスや弟子たちと同席していた」と読んでよいのです。
 並行記事の全てにある律法学者たちを指す言葉、「正しい人」は、New English Bibleでは「高潔な・尊敬すべき人々」(respectable people)と訳されています。たしかに律法学者たちは「尊敬すべき」「高潔な」人々とされてました。
でも、この時のイエスの言葉は、律法学者たちへの皮肉に満ちています。
「現代聖書注解」の『マルコ福音書』を書いたL.ウィリアムソンはもっと痛烈です。
「わたしたちがイエスの言葉を聞くことができないのは、わたしたちもまた自分が『正しく』『高潔である』と思い込んでいるからである」。
 並行記事の〈ルカ福音書〉は、今朝の〈マルコ福音書〉に、相変わらず「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とわざわざ「悔い改める」という言葉を加筆しています。
「悔い改める」という言葉は「反省する」という意味ではなく、向きを換えて、居るべき場所に戻るという意味です。「あなたがたは罪人だ」と「見捨てられた者たち」が「あなたがたは罪人ではない」と宣言されるイエスのところへ、大ぜい集まってきたのです。

2022年1月23日

(説教要旨)
 
                「神の箱」 山本光一牧師
              〈サムエル記上 5 章 〉
 今朝の物語は、まだイスラエルに王国が作られていない士師記時代のこと、神の箱(契約の箱、主の箱)がペリシテに奪われてしまった話です。
 神の箱は、モーセがシナイ山で神から与えられた十戒が納められている箱でした。大きさは長さ130㎝、幅と高さは80㎝。祭司が且いで戦闘などの重要な場面に繰り出されて居ましたが、ヨシュアの時代以降は主にシロの幕屋の至聖所に安置され、ソロモン王の時代になってエルサレム神殿に置かれていました。
 神の箱は、ヨシヤ王(紀元前609年没)の時代のことが書かれている〈歴代誌下 353〉を最後に聖書に全く登場しなくなります。南王国ユダは、B.C. 609年からエジプトに支配されていましたが、それ以前にエジプトに戦利品として奪われてしまったようです。(映画 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、契約の箱はエジプトのナイル河畔タニスにありますが、これはB.C. 7世紀にエジプトの王朝が置かれていたのがタニスであったからです)。
 突然、神の箱については興味を失う聖書ですが、そもそも、聖書において神は箱に納められているようなものではなく、荒野を彷徨う民の呼ばわる(助けてくれと叫ぶ)声に応えられる神です。
 今朝の話は、聖書の神理解を示す興味深い記述です。神の箱は戦闘中ペリシテに奪われてしまいますが、〈サムエル記上4章〉、アシドドに置かれた神の箱が独自にペリシテとたたかうのです。ペリシテは、困ってしまい、神の箱をイスラエルに返却してしまいます。〈サムエル記上6章〉
 今朝の話は、神がどのような方であるかを示しています。わたしたちが信じる神は、わたしたちが勝利する時に勝利するのではなく、わたしたちが敗北する時に敗北される方ではないのです。
 わたしたちが信じる神は、わたしたちの知恵や常識に縛られてはいません。「一日中労苦したわたしたちと1時間しか働かなった者の賃金がなぜ同じなのだ」と文句をいうひとびとに「わたしの自由にする」と応えられるのが神なのです〈マタイ20:1~16〉。
 神は独自にたたかわれる。わたしたちの勝ち負けに関係なく、わたしたちが捕らわれている知恵や常識に関係なく、神は救いの道をわたしたちに備えておられるのです。

2022年1月16日

(説教要旨)
                   「自分の秤」 山本光一牧師
 
                  〈マルコ福音書42125節 〉
 今朝の譬え話は、イエス御自身が譬えられています。この譬え話は、4章の最初にある撒かれた種の譬え(3~9節〉とその最初の説明〈1012節〉に見られる弟子たちへの励ましを補強する役割を果たしていると考えられます。
 「あかりは枡の下には置かない」の枡は灯りを消す為のものです。「あかりは寝台の下に置かない」は「あかりは隠されるために置かない」という意味です。
 あかりは、この世の光であるイエスを譬えています。はっきりと、世の救いのために来られたイエスを、弟子たちも含めて誰もそう思ってはいないので、イエスはそう言われるのです。イエスも「ほの暗い灯心」〈イザヤ4214〉なのです。
 わたしたちも、イエスの言葉をどう聞いているでしょうか。ちょっと気の利いた人生訓としてでしょうか。自分にではなく、誰かに教訓を与えるための名言としてでしょうか。
 秤は、わたしたちが譬えられています。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」は、きびしく聞く側の様子が問われている言葉です。「何を聞いているかに注意しなさい」は、〈並行記事ルカ818〉では「どう聞くべきかに注意しなさい」と書き換えられています。
 聖書は、確かに最初の1ページから最後の1ページまで人間が書いたものです。しかし、わたしは聖書の言葉を神の言葉として読むべきであると思います。
 聖書を書いた人々は、「救われない現実」にしっかりと目を向け、「ああ、神様、わたしを、わたしたちを救ってください」「神様、わたしを、わたしたちをお見捨てになったのですか」と神との格闘をしていたのだと思います。
 〈23節〉の「聞く耳のある者は聞きなさい」との言葉で求められている態度とは、「救われない現実」の中で、そこにしっかりと目を向けて聞けということだとわたしは思います。
 宗教各派は、今、信徒の減少を起こしています。日本キリスト教団ばかりではなく、(もちろん、社会問題に目を向けたから信徒が減少したのではありません)。日本の世界の宗教各派がそうなのです。わたしは、その原因は「皆が現実に目を向けられなくなった、目を向ける気がなくなったからではないか」と思うのです。
 〈25節〉の「持っている人」が持っているのは、神の言葉に聞く耳を持っているという意味です。自分の、自分たちの現実にしっかりと目を向けることが出来て、「ああ、神様、救って下さい」と願う人が、聞く耳を「持っている」人なのです。

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